2011年8月7日日曜日

タルコフスキーの映画術


水声社というところから出てます。



タルコフスキー関連の本は結構読んでますが、彼の映画理論、というか映画以前の映画を作る人間の理論というのは、ケージの音楽のそれと同じように唯一無二で本質的なものだと思います。
 ただ時代はタルコフスキーや、ブレッソン、やらフェリーニ、絶好調の時のクロサワとかがやってたような真実へと進む映画を作るのは、社会的枠組みの中で作ることは不可能になってしまったと思います、もしそういう本当の映画が作られるなら必ず個人的なものにならざるをえないでしょう。もしくはたった一人の人間によってそれは達成されるしか方法が無くなった、それが漫画であったりアニメであったりするかもしれない、小説では絶対に無いし、音楽で表すには向いていない、音楽はもっと完全に善なものであって、人間という不完全性を宿してないでしょう、音楽は完全な芸術を作る可能性がある、人間は不完全な物だから不完全な物を作るでしょう。
 ともかく、社会が進歩して豊になれば、集団としての真の芸術へ向かう方向は失われる(もう失われた)、たった一人で進む強さが芸術家には必要になっている、宮本武蔵の水墨画には本質的なものがあった。今日水墨画を図書館に調べに行きましたが、本当に本質的な水墨画を描いてるのは武蔵と雪舟くらいなもので、他は何か濁っていた。色彩は日本画を駄目にしている、それは美しさではなく心のにごりのようである。