2024年9月14日土曜日

1993 ヴェルレーヌ伝 アンリ・トロワイヤ

 フランスの詩人ヴェルレーヌの伝記。


 フランスの詩人というと、ワタシは、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオの三大詩人って感じなのですがどうでしょうか?

 普通ユーゴーも有名なのですけど、どうにも現代の感性にはユーゴーはぴんとこない。現代でユーゴーの詩を嗜んでるってやつを見かけたことがない。


 ほいでこの三人は、その生き方、がそれぞれ破天荒で、まさに芸術家という点が重要なのです。共通して言えるのは三人とも、破滅的な結末を迎えたということ。ランボーに関しては、若くして一切芸術から足を洗うという、非常に斬新な終末を迎えることになる。


 ワタシは芸術家ってのは金持ちになったら絶対に駄目だと思う。結婚して裕福で金持ち、そんなやつが、芸術を生み出しうるとワタシは絶対に思わないものなり。ガキだと言われましょうが、ワタシはこの考えは変えませぬ。


 宮崎駿は尊敬すべき作家ですけども、やっぱりエンタメ、であって、芸術ではない。他にも結婚もしていて、成功もしていて、金持ちで、才能もあって、地位も名誉もありて・・・更に才能も技量もある。という人々がいますけども、やっぱりそれはエンタメであって、芸術ではない。

 

 もちろんエンタメも大事。エンタメも必要。でも芸術、とは違う、この線引きは必要だとワタシは思う。

 寿司だって好き、カレーも好き。だが寿司カレーなんていらないし、寿司屋でカレーを出されても困るし、その逆もしかり。エンタメはエンタメ。芸術は芸術。


 しかし昨今、本当の芸術家、は極めて稀なり。みんなすぐに金持ちになって、すぐに働かなくなる。


 ヴェルレーヌ、は途中までは呑兵衛で、酒乱で、男色の傾向もあり、ってことですがそこまで破天荒とは言えない。役人としてちゃんと?仕事もしてたみたい。

 こういう呑兵衛なんてのは普通中の普通で、ワタシのイメージでは西洋人なんて9割はずぶずぶのアル中で他はゴリゴリに宗教に染まってるガンギマリ連中で、シラフでまともなのは1割程度っていうイメージ。


 まぁ9割は言いすぎですが、半分はアル中でしょう。だからいたって普通。そのままでいれば、ヴェルレーヌはあまり売れなかったが才能のあった詩人、という程度しか歴史に残らなかったでしょう・・


 が!ご存知の通り、ある決定的な出会いがすべてを変えることになる・・


悪魔の子 アルチュール・ランボー。

 既存の権威、伝統、ルール、決まり事、あらゆるものにつばを吐きかけ、老いぼれどもは容赦なくこき下ろし、ヘボ詩人どもは罵倒し、金持ちとブルジョア、安定した暮らしを求めるすべてのカスども に憎悪を向け、ボロボロの身なり、暮らしはルンペン、全身シラミまみれ、酒と麻薬でズブズブ、無一文で世界を放浪する・・・

 だがその才能だけはまぎれもなく天才、まさに神童。現代詩とはランボーから始まり、ランボーそのもの。ランボー以降の詩人はみんなランボーに憧れ、しかしランボーにはなれないという存在。デカダンスの権化。破壊と堕落の王。ヒモ、クズ男の究極完全体。このモンスター・・・


 働くなんてのは、クソだね!


 ヴェルレーヌはランボーに出会ってしまい、そのすべてをこの若者に捧げることになる。子持ちのおぢさんと未成年の青年のプラトニック?ラブ。という全方位に喧嘩を売るようなスキャンダル。

 過去にも未来にも、この二人を超えるようなスキャンダルな天才ってのは二度と現れないのではないでしょうか。


 坂を転げるというより、奈落に落ちるような、堕落の始まり。アル中で妻を殺しかけたり、DV、逃亡、浪費、借金・・・


 この二人の愛憎の生活はほんともう、支離滅裂、ハチャメチャとしかいいようがないのですけど、やっぱり時代、もあると思われます。

 19世紀のフランス、は一言でいうと没落、であって、フランス革命、ナポレオン戦争、の時代は世界の中心は明らかにパリ。そこから全てが始まる、という時代があったのですが、ナポレオンが敗れ、そのあとはもうぐちゃぐちゃ。

 プロイセンにはコテンパンに負け、プライドはガタガタ。このあとの戦争はすべてフランスはすぐに負ける、弱小お荷物国家に。

 海外の植民地もどんどんイギリスに削り取られ、まったくのいいとこなし。三流国に成り下がっていく・・・。

 だからこそのデカダンス、退廃趣味。崩れていく、終わりゆく破滅の美学がある。

 国家の実力はずんずんと下降していきましたが、芸術では、やはりパリは、いや、更にパリは、花の都になっていく。もはやそれしかすがるものがないっていうことで。



  ヴェルレーヌは破天荒でめちゃくちゃだといいますが、確かにまぁその通りなんですけど、ランボーを銃で撃って牢獄にぶちこまれてますし。だがランボーという、真の、破天荒と比べると、かなりまともに見えます、クソ野郎という程度。

 ヴェルレーヌの破滅は、いわばまだ、理、の範囲内。ただのクソ野郎です。カネがあるとすぐ酒と娼婦に使ってしまい、泥酔して大暴れ。ダメですが、意味はわかる。

 ランボオのそれは、もう理、から外れてる。ポスト・モダンですね。


 だから二人がたもとを分かったのは当然と言えます、ランボオは、詩、とか作品、芸術、とかいう「理」からも飛び出して行ってしまう。

 ヴェルレーヌはまぁ一般的にはクズ人間なんですけど、でも芸術家ってそういうものだと ワタシは思う。普通の社会人として生活できないからこそ、芸術家なのであって、品行方正、まともな作家なんてのはカスです。そんなやつの作品なんて誰が読みたいものか。

 多様性だとかふがふが言ってる、ブルジョアどもは、前科者だとか、こういう社会のあり方、に適合できない人間には厳しいという気がする。


 さて晩年は足を病んでしまい(もちろん飲み過ぎが原因で)、ほとんど障害者として、国家の援助に頼り切りとなってしまいました(がもちろん、酒は止めず)。

 しかしじわじわと、悪魔的天才のランボーはカリスマとなり、ヴェルレーヌも、伝説の詩人としてカルト的人気を得るようになっていく。

 ただ詩、ってやつは、大金持ちの道とはまったく無縁のもので、生活はまぁ生活保護って感じですね。


 ヴェルレーヌが自分を分析して、「僕の性は女だ、それですべて説明がつくだろ」

と言ってます。それを聞くとたしかにすべてが納得がいく。自分の性としては女性だけど、男性の文才がある。

 暴言吐きますが、文才のある女性というのはいません。それはたぶん、破滅型の女性、ってのがいないからだと思います。身持ちの悪かったり、貧乏な女性はいるかもしんないけど自ら破滅を求めていく女性ってのは本質的にいない。ましてやランボーみたいに 理、から外れた異常人間は女性にはいない。

 女性は賢くてまともなのです。まともであるということは、つまらんということと同義。狂人みたいなのはいるでしょうけど、知性はしっかりしつつも、壊れてるってことはない。

 ヴェルレーヌは女性であり、男性の能力がある、これが確かにすべての説明になってる。


 ヴェルレーヌは死ぬまで貧困に苦しみますが、別にヴェルレーヌに限ったことではなくて、他の文士も同じようなもの。19世紀の文筆業なんて全くカネにならないものなのです。ユーゴーみたいなのが超例外なだけで。

 トルストイはごちゃごちゃ言ってるが自分の土地は手放なさい、貴族地主でしかない。ってわけ。

 でもそんなカネにならないことのために一生を捧げる、この時代の作品の切実さ、本気さ、ってのはそこにあるのです。