2018年1月3日水曜日

1910 思い出すことなど 夏目漱石

 ーーーー自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。ーーーー


 漱石は大量の喀血とともに臨死体験をして、死を感じることによって別のフェイズに移っていく、そして今までちょっと演出過多なんじゃないか?という感想だったドストエフスキーの境遇に惹かれていき(漱石は現代人はハッキリ自分の感情を表に出すことはない、ドストエフスキーのキャラクターってのはリアルじゃないと感じていたみたいですね、たしかにドストのキャラみたいな人間は、現実の世界には極めて稀にしかいない、写実というより思想や運命が肉体化している、今で言うなら概念の擬人化ですね)
  それ以後の作品に影響するようになった、といいます。この作品夏目漱石が1910年夏に血反吐を吐いて死にかけて、ギリギリのところで回復した経験から、それがどういう顛末だったのかということを書いた随筆のようなものです。



 有名なところとして漱石の宇宙論みたいなのが、7章あたりにあります。宇宙の誕生とか地球の誕生、人類の誕生ということから考えると、一人の人間が生きていることなんてほんの一瞬、無意味というコトですない、ただの偶然にすぎない。みたいなネガティブなことを、超一流の文体で書いてあります、病み上がりなのにこの文章の冴えはなんだよ!元気じゃねぇか!ってツッコミたくなるくらいすごい文章力です。ボクがガンダムを一番上手く使えるんだ!じゃないですけど、やっぱ文章力においてはこのヒトにはかないっこないですよ、だって自分で生み出したものなんですもの。そりゃ自分が一番上手く使えるわけだ・・・。
 文体、そのものを生み出すってことをしない限り漱石を超えることは出来ないってことですよね、しかし今更、まったく新しい文体を生み出すなんて出来るのでしょうか、文章、の書き方自体を変えるってことが。
 この作品も日記的スタイルで事実をたんたんと書いているようで、全体として季節の移り変わり、というのをキチンと構成してまとめあげてる。これは漱石の作品のほとんどがそうだと思います。季節の変化と心情とか状況の変化がリンクしていて、最後に新しい季節が来て終わる。こういうとこも憎いなぁ・・。素直にこのヒトは上手いなぁと思ってしまいましたねw


 
 死、っていうものに触れて、実生活、というものから自由になり、競争とか作品の善し悪しなどももはやどうでもよくなり、風流、というものに興味を持ち出した。みたいなことも書かれてあります。確かに風流、っていうのは西洋の物語には一切登場しない概念ですよね。なるほどって思いました。一つまえの記事に書いたんですけど、風流ってのはつまりかっこいいってことなんじゃないの?ってワタシは思いました。

 非合理的なかっこよさっていうのか、我利我利、ではない行動。かっこいいってのはどういうことなんでしょうね?

 それと自分は商業作家でそれを生業としてるのにもかかわらず、商業的な作品を軽蔑してる・・みたいなことも書かれています。わかる!w 自分もそれでメシ食ってるくせに、他のヒトも同じようにそれでカネを稼ごうとしていると、こんなのはクソだ、って言ってしまう。クリエイターってのは基本は自己中のクズの集まりですからなぁ・・・。


 なんにせよ、小説のテーマっていうのは色々あるように思えて極端に言うと、恋愛と死、の2つの大きなテーマしかないです。人間が興味があることがつまりはその2つしかないと言ってもいい、セックスと戦争、それ以外に何を書いたらいいのかちっともわからん。
 この喀血による臨死体験以降を後期漱石とするのが一般的な流れ、そんな作家の人生に前期と後期の分かれ目なんてあるわけないんですけど非常にわかりやすい区切りではあります。

 けど臨死体験で死にかけてる、なんていってるけどまだ漱石はこの時44才なんですよ、今だったらむしろ若いっていうか、クリエイターとしてはピークの年齢って感じじゃないですか?それなのに死、っていうのが身近に迫ってる。やっぱ命短しですよね、戦前の世界ってやつは、それは作家としては圧倒的に善いことだと思いますけどね。
 やっぱ人間ってのは弱いもので追い詰められないと仕事しないものです、死が近いってのをこんなに切実に感じた以上、漱石も、本気を出す時が来たな・・と感じたと思います。