2018年2月28日水曜日

1924 壁の中の鼠 The Rats in the Walls  ラヴクラフト

ラヴクラフトの短編です、わずかながらこれもクトゥルー神話に関連する短編。内容は自分の祖先が住んでいた古い教会に、秘密の地下室が存在し、そこにいたのは・・?という物語。ダークファンタジーです。


 いわゆるハリーポッターもダークファンタジーなんですよね、剣と魔法と明るい系のファンタジーではない。だからダークファンタジーってやつは、今ではもうゴリゴリのメインストリームのジャンルになったということです。

 ラヴクラフトっていう作家は、文学的じゃないところがその良いところなんだと思います、つまりは読み手にとって楽しいように描く能力がある、面白いように描こうっていう意思がある。サービス精神ですね。
 純文学系だと、読むのが苦痛だろうがどうでもよい、作品のスタイル、コンセプト、が大事なのだ。みたいに開き直ってるものがたくさんあります。ちょっと教養の為といって世界文学などを手にとってみて、なんだこれは・・全然おもしろくない。ってそのまま活字嫌いになる人がほとんどです。
 ミルトンの失楽園、などは、ほんとにまったくおもしろくはないです。別に楽しませる為に書いてないんですよね。

 面白いことを最大限重要視するようになったのは20世紀の価値観だってことですね、どうしてそうなったのかというと、文学が商品、になったからです。それまで文学ってのはごく一部のインテリや教会みたいな宗教関係の人たちが読むもので、金儲けを目的とした商品、ではなかった。

 
 ラヴクラフトの批評とかで、文章が下手だとか、内容が演出過多みたいなことを言うヒトがいるようですが、別にそれを目指して無いからってことで非常に的外れだと思います。ファミリーカーを評価して、F1より遅い!って言ってるみたいなもんです、いやいや、全然目指してるところが違うから。

2018年2月25日日曜日

1915 道草  夏目漱石

 「こころ」という文学史に輝く作品の次に書かれた作品なのですが、漱石のなかでも特別にマイナーな作品です。ハッキリ言うと全然人気の無い作品。

 内容は、私小説風、と言われていて、漱石自身が作家としてデビューした頃の話と、漱石の幼年時代が書かれている、自伝的な作品です。もうすぐ死ぬな、という予感を持っていた漱石が、自伝を書いておこうと思ったのでしょうね。


 小説としては、大したオチがあるわけでも、フリとオチなどの構成なども何もなく、ただ淡々と日常が描かれていて、カネカネカネの世の中と、分かり合えない夫婦、懐かないコドモ、世知辛い世の中、自分がもしかして優しくないだけなのではないか?自分には情が無いのではないか、という孤独感、まわりがバカに見えて、いつもなんとなく面白くないという知識人の悩みなどなどなど・・・、アンチ小説、とも言える、あえて面白くなくした、みたいな作品となっています。人気がないのも頷ける。もう人気などを取りに行く必要がなくなってる作家の作品だともいえます。

 
 漱石は幼少時に養子に出されて、後にまた実家に引き取られたという過去があって、これが最後まで漱石にはトラウマとして残っていたようですね。要するに「親から捨てられた」、ということがついに死ぬまで忘れられなかったといえます。

 
 ハリウッド映画などを見てわかるように「そうはいっても家族愛」、的なオチを持つものは数多くあり、ガチでそういうことを信じてる人間も大勢います。彼らは要するに運が良くって、生まれに恵まれたということなんですが、彼らにとってはそれがセカイのすべてで、一般的、な家族のあり方だと思っている。母親は当然コドモを愛しておって、父親は家族の為に頑張って働く、これが正解であり、正しいっていう。ヒップホップでいうところの、家族にマジ感謝っ!っていうやつ。



 ワタシみたいにそういうのがゲロを吐いてしまうくらい苦手なヒトも少数ながらいます。コドモの面倒は親が見るもの、っていうのは結局コドモを見捨ててるだけじゃんか、コドモに権利はなんにもないのかよ。って思う。クソみたいな家庭に生まれたコドモがあまりにも無権利すぎる。
 ワタシは家族っていう制度がなくなればいいと思っています、コドモはみんな国家のコドモとして扱われて、同じスタートラインからスタート。プラトンのポリテイア的な考え方ですね。そうしないと、生まれた家柄でほとんど人生が決まってしまって、生きてくことや努力することにモチベーションが持てないですからね。

 古代ギリシャにはスパルタみたいに実際に家族制度をなくした国家もありましたが、キリスト教以降、家族、という制度を撤廃した国はほぼ無いんじゃないですかね、小さいコミュニティではあるのかもしんないけど、家族制度を持たない国っていうのをワタシは知りません。

 よく格差、閉塞感、階級制度、とかいいますけど、そのすべては突き詰めれば「家族」という制度によるものです。けどそこには誰も踏み込まないし、母と子の美しい愛情、みたいなイメージは未だに死ぬほど繰り返されているし、家族制度を公に批判してるヤツなんて普通のメディアではほぼ見ませんよね。
 家族制度、っていうのは動物としてのDNAプログラムに入ってるものですから、理性を持った人間というのは少数派なわけで、本能によって行動する大多数に対して意見が通ることはありません。けど虫とかには、家族、単位ではなくて、種とか、コミュニティの存続単位で動く生き物もありますよね。やっぱ虫ってのは異星人なのかもしれませんなぁ・・・。


 結局この「道草」っていう作品は漱石による「家族論」ともとれます、妻、コドモ、妻の父、自分の里親、実の親、姉夫婦、兄夫婦と、登場人物はほぼすべて家族、だからです。

 ワタシは漱石の言いたいことがすごくよくわかりますけど、「マジ感謝!」の人々にはな~にをグダグダ文句ばっか書いてるんだ漱石は、って思うのでしょうね。
 結局会いに来るやつは全員カネが欲しいという人間しかいない。

「みんなおカネが欲しいのだ、そしておカネ以外何も欲しくないのだ」

と強烈な皮肉も書いています。この漱石の、人間社会に対する辟易、うんざりっていう感覚がわかるわかる!っていうヒトにしか面白くない作品ですねこれは。

2018年2月22日木曜日

武蔵野線 人身事故  安楽死制度について

 今日の朝、ゴリゴリの早朝に武蔵野線 船橋法典駅で人身事故があって武蔵野線は完全にDEADになっていました。

 わたしも間接的に影響を受けて電車の中で30分ほど缶詰にされてしまいました。
そのあともどえらい混雑してたみたいですね。武蔵野線はもう機能停止になってたみたいだし。(まぁ武蔵野線はごつい名前のクセにすぐ止まるで有名なんですけど)



 人身事故っていうか投身自殺だったみたいですけど、この人身事故ってなんやねんって学生の頃からずっと思ってましたね。なんかぼやかしてる、変死した。みたいな言い方。変死ってなんやねん。変じゃない死に方なんてあるの?安楽死くらいじゃないですかそれ。
 同じように非常事態における自衛権、みたいなのも、非常事態じゃない時の自衛権なんて存在しないだろっての。通常状態での戦争状態、ってどういう状態なの?って話ですし。

 駅のホームからヒトが飛び降りて死にました、遺体の処理の時間がかかっています。でいいと思うんですけど、そんなこと言うんじゃねぇ!!って怒るヒトがいるのでしょうかね?そんなことよりも事態を正確に伝えて欲しい。事故で生きてて救出してるのか、すでに死んでて後処理をしてるのか、でこっちの心境も違いますもの。


 で本当のテーマはそこじゃなくて、やっぱニュースってtwitterが一番早いなぁってことです。昔は2chのニュース板が最速である、ってことを言われてましたが、今一番速度の早いニュースソースはそうはいってもtwitterなんだなってのを再認識しました、事故現場の様子とか駅がどういう状態か?ってのを一番最初に伝えてくれる。2chだってニュースとしてあがったものを転載してるだけですけど、twitterは即現場からのレポートなわけで確かにそれを上回るスピードってありえないですからね。
 もはや宣伝とかPRとかにしか使われなくなってきたTwitterですけど、ニュース速報ツールとしてまだまだ使いみちがあるなぁと思った次第です。



 それにしたって朝の6時に自殺ってどういうことやねん、って思いますね。早起きかよ!っていう。それとも眠れない夜をずっと待っていて決行したのでしょうか。


 これは世間一般には絶対賛同されないことなんですが、ワタシは自決補助制度ってのを作ったほうがいいと思うのです、安楽死賛成派。よくこういう人身事故で、ふざけんな、クズが、勝手に死ねや、ヒトに迷惑かけんな!っていうストレートな意見を言うヒトがいます。
 まぁそれもわかるんですけど、じゃあ自殺したいときにヒトに迷惑かけないやり方があるの?っていうとこの国では自殺は禁止されてるので無いわけです、だから上みたいにふざけんな!派のヒトよちょっと待てよ、ってワタシは思うわけです。自殺する派のひとにすれば、ふざけんな、の言い分は、食うものなければケーキ食えばいいだろが!!って言われてるような話になってしまいます。


 自殺が禁止な国でも銃が売ってる国は話が早い、拳銃自殺ほど簡単なものは無さそうだし、痛くなさそうな感じもする。銃が売ってる国で電車に身投げするヒトはたぶん相当少ないはずです。
 銃殺ってのは残酷なように思えて実は慈悲深いやり方なんですよね、なんでって銃弾はタダじゃねぇからです。ゴヤの絵で銃殺の絵があり、ナポレオン軍はなんてひどい!!っていうのを強調したかったみたいなんですが、銃殺するなんてナポレオンはやっぱ紳士だな。と思ったのはワタシだけでしょうか?

 銃殺に弾薬を使うのは勿体無いというわけで、日本軍は・・・を焚き火にしたりしてました。これはほんとゲスの極みです、最低最悪です、生きたまま焼いて殺すなんてほんとクズかよ!って話ですよね。ユダヤの強制収容所も最終的には餓死するまで放置、ということになっていてこれも本当最悪です。


 話は逸れまくってしまいましたが、やっぱり安楽死制度は必要だと思います、人身事故も減るだろうし。洗剤を混ぜるような輩も、おそらく危険ドラッグに走るひとも減ります。クソかよ!!ってキレてる方々、ただ怒ってるだけじゃなくて安楽死制度を作るように働きかけるほうが建設的な意見だと思います。
 もちろん安楽死制度が整備されない理由もわかってます、こういうのにムキーっ!ってヒステリックにキレるBBAも大量にいて、そういう連中からの票が減るし、さらに欧米ではキリスト教が自殺を禁止してるので、そっからの票も落としてしまいます。政治家は嫌われないのが仕事なんで、建設的ではあるがリスキーな法案を通そうなんて志を持った政治家はいませんものね。




 さらに付け加えると商業出版では自殺を擁護したりそれを進めるような表現、というのは実質禁止されています、出版社が叩かれたくないので自主規制ってことなんでしょう。安楽死制度を議論する、こと自体が禁止されてるわけです。けどみんなで議論して決める、ってのが民主主義なんだとしたら、議論すること自体禁止したら、それはもうカミサマが決めたので議論の余地なし、的な扱いで、それを許すと、はいこれもカミサマが決めたことなんでダメー、議論出来ませーん、ってことで、全部「カミサマがそう言ってるんで」方式で押し切られてしまうことになります。


 それにパット見自殺を擁護してるように見える作品なんていくらでもあります、サド、バタイユ、プラトンみたいな古典、特にキリスト教化がされてないギリシャ哲学系とかにはいくらでもあるし、太宰治の「人間失格」なんてまさにだし、最近とりあげた夏目漱石の「こころ」、だってどこにもそれでも読者の皆さん、自殺なんてしちゃだめだぜ、なんて言い訳は書かれてないです。


 無駄な争いは避ける、さっきの政治家スタイルのやり方、があらゆる所に蔓延してますよね。いらん揉め事は起こすな。バカと話し合っても無駄、クレーマーはクレーム言いたいだけの連中だから無視するに限る。とりあえずはいはい言うこと聞くフリだけしとくという。「議論を避ける」、のがむしろ優しさ、スマート、みたいな感じになっています。


けどこの「バカとは関わり合いになりたくない」、ってのは「民主主義」なんてイヤだってのと同じことですからね、自分と意見の違う人間とは関わり合いになりたくない。世界的にこのアンチ民主主義、的な感じ、ってのを受けます、そしてワタシもそういう感覚はすごいわかる。わかるゆえに、良くないなぁ・・・とも思う、パッと見、嫌だなぁと思っても、イヤイヤ、実際は違うかも、って手を出してみる人間でありたいもんですね。


 
 
 

2018年2月12日月曜日

1914  こころ  こ、ろ 夏目漱石

 夏目漱石の代表作というよりは、日本文学の代表作というような作品ですね。日本文学の「戦争と平和」みたいなもんです。文学にまったくの興味0、活字を憎んでいて意地でも読まないというヒトを除いては聞いたことくらいはあるでしょう。


 この小説は明治天皇の崩御の際に乃木希典将軍が殉死したというニュースが発端となって創作されたようです。なんか面倒なコトバ使いですがつまり天皇の死と一緒に、軍隊の大将が後追い自殺をしたというニュースです。
 今では考えられないことですが、それが明治の精神であったともいえます。漱石にかぎらずこれは当時の人々にはかなりショッキングなニュースとして写ったようです。

「明治天皇が死んだ時に明治の精神も死んだという気がした、明治の影響を一番強く受けた私が生きているのは時代遅れのように感じた」

 というように先生も、明治天皇の崩御、をきっかけにして自殺をすることになります。一応明治っていうのは天皇を担ぎ上げる為に江戸幕府を倒したというスローガンでやってますので、もちろんそれは名目で、実際は社会変革するために既存権力を駆逐したクーデタです。

 それにしたって名目は守らないといけないわけで、明治の精神、は天皇中心の精神だったわけですね。

 そして明治の精神、と漱石そのものでして、漱石は明治に生きて明治に死んだ、明治そのものみたいな作家ですから、どうも漱石自身の遺書のように思えて仕方がないというのがこの小説。ただ漱石にはこんなロマンスみたいなことはなかったと思いますけども。



 たぶんだいたいの教科書には「こころ」が収録されてるんでしょう。けど、どう考えたって10代にこの小説の意味みたいなのはさっぱしわかんないですよね、一体どういうつもりでこれを教科書に採用してんだって思います、文章の綺麗さとかなら「草枕」とかでいいのに、こんなエグいというかディープな内容の物語を読ませる意味がわかんない。ワタシも教科書で読まされた時は、なんじゃこのネチネチした恋愛物語は、しゃらくせぇ。もっと面白い話を読ませろって思っていました。当時のワタシは吉川英治とかを読んでました、三国志とか宮本武蔵とかを読ませたほうがよっぽど為になるじゃないかってわけです。ちなみに吉川英治の三国志はワタシが初めて買った本です。


 ワタシは同じ本は読み返さないタイプの人間です、本などに限らず、もう一度やってみるってのは時間が勿体無いと思う、というか、多少面白くなくても、どんどん新しいものを吸収したほうがいい、って思うからです。そりゃ前面白かったものをもう一度やっても面白いに決まってるケド、それをやってると、どんどん閉鎖的になってしまうものですから。

 ケド「こころ」っていう作品は、2回読ませることを前提にしているような作品だと思います。最後に種明かし的にすべてが明かされるわけですけど、すごく単純に読むと、「先生」はKと静が結婚するのがイヤなので、静をNTRして、それでKが自殺してしまったのでそれを罪悪だと感じて最後には自分も自害する。というオチなんですが、そんなしょうもない恋愛小説ではないのは誰の眼にも明らかです。

 Kが自殺したのは、実は静を先生に奪われたからではないんじゃないか?っていうのを確かめる為にもう一度読むことを要請する作品なんです。最初から再び戻って、自分で自分なりの答えを考えないといけない。


 もちろん、明らかな答えはどこにも無いです。小説の冒頭で、主人公であるワタシ、は先生のことをA、やBみたいなアルファベットで呼ぶようなことは出来ないから先生と呼ぶ、ということをわざわざ説明する、ということは、親友を「K」と呼ぶ、先生にとって、K、が本当の親友なのか?っていうことがわからない。先生、の人格が、実はK、を自殺させてしまったのは自分なんだ、という悲劇のヒーロー気取りで、その実、先生、は自分勝手で利己的なくだらない人間なのかもしれないと取れる。
 

「先生」、がくだらない自分本位のエゴイスト(イゴイストの意味がわかってるのか兄さん!)だとすると、美人の奥さんをもらって、コドモは作らず、親の遺産だけで生活し何もしない、現代のNEETである「先生」はほんとうにクズ人間でして、存在する価値の無い人間です。自分でもそれを気づいていて、Kを殺した、という罪悪をむしろ自分の存在を証明する証としてそれにすがっているようにも取れる。そう考えると、K、という人物自体、もなかなか怪しくなる・・・・。

「先生」はKを救おうとしたけれど、Kが自分の好きな人と仲良くするのがイヤなので掠め取るように結婚したことを、自分もまた自分の相続財産を奪った叔父と同じような、自分の利害が絡むと、ヒトを裏切る悪人だとわかってしまった。自分が本当はくだらない人間だと自分でわかってしまったから自決したのだともいいます。


 憎んでいた敵、が自分自身に内在していると気づくというのは、現代的テーマでして、アメリカなんて!自由主義の悪癖だ!みたいなことを言っていても、物質的快楽には誰も抗えず、スマホ新しくしよー!強欲は正義ー!みたいなことを言うようになります。
 ちなみに主人公の兄、は実務的人間で、働いてない人間を人間とも認めない、とあって、カネを稼がない人間はクズ、と断罪する戦後の世界の象徴でもあります。



 先生のロマンス、と同時にこの小説には、人間の嫌な部分、最終的に自分の利害に関わると結局全員悪人であり、キズナだの平和だのクソみたいなキレイごとを並べるが、自分の腹は切らない。主人公の母親のように善良ではあるが愚劣である田舎者が大半で、最終的には「ココロ」の通じ合わない存在ばかりである。それに加えて病気、お金のために働かなきゃいけないこと、生活、の苦しさ・・・
 果たして人間社会で、生きていくこと、が本当に意味のあることなのか?っていうプロットが同時に進んでいきます。


 これはワタシなりの結論なんですけど、この小説ってほんとのほんと、のことを主題にしてるんだと思うのです。それは

「本当はもう生きていきたいとは願ってない、本当の本当は死にたいと願っている、本当は生きていくことの価値を認めていない」

 っていうことなんだと思います、それがこの小説が本質的な小説であり続ける理由なんだと思うのです。

 このほんとのほんと、っていうやつは、言ってはいけないことなんです、最大のタブーですよね、だってそれを言ってしまったら、もう全否定。めちゃくちゃです。この世界をすべてを否定してるのと同じです、当然自分の存在も含めて、小説、それ自体の否定でもある。
 けれどココロ、の底では、このほんとのほんとがいて、それを見ないフリをしてる。誰もがその最大のタブーを隠している。

 作品の善し悪しってのは結局はそれは作者自身がそれを本当に信じてるのか?っていうところに帰着するというのが私の考え。「この世界には価値があって、本当にこれからも生きていきたい」、って作者がそれを信じてるかどうか・・・


 そしてどうやらこの作者は、それを信じてないような気がするのですが・・?

/////

 こっからは蛇足ですけど、それが、この小説を教科書に載せるやつの意味がわかんないってことなんです、もしかしてこいつら誰一人、この小説の意味がちっともわかんない感受性0の、ココロ、が無い人間なんじゃないか?ワタシが10代のころに感じた違和感はそれなんです。この小説は、生きることの否定という本音を吐露してる作品です、告白です。何にも考えないで何も感じないで、ただ有名だからってことで、読むフリをする。こんな人間ばっかりなのか?だとしたら漱石の感じてる通り、この人間社会ってのは、実は、全く価値の無いものなんじゃないか?ってことか・・・

 Kは愛する人を親友に奪われたことで死んだのではなく、この世界にひとりぼっちだということが淋しくってしんだのではないか?という先生の疑い通りですね。


 ひとりぼっち、というコトバをはやらせたのは漱石だと私は思ふ、ぼっち、というのも現代のコトバですけど、これもえらく本質をついたコトバですね。
 

2018年2月8日木曜日

1914 私の個人主義 夏目漱石

 夏目漱石が学習院大学で行った講演だということです。

 内容は個人主義、について。まぁ漱石先生というやつは非常にまっとうなことを言う人間です。キレイゴトを大上段から振りかざしたりもしないし、右派的で保守的なゴリゴリの権威をふりかざしたりもしない。常識、バランスのとれたヒトです。


 漱石先生が自分の人生を通して、他人の意見や、西洋の意見をただ借用するのではなく、自分の意見を言うべきだ、ということ、自分の考えを一から組み立てて創作をするようになったということを言ってくれます。まぁいい演説ですこと、私は実体験で、こいついい話をしよるなぁ、という人間に会ったことがありません。演説の上手な人間、大衆の前でしゃべることの出来る人間っていうものに。ヒトラーやキング牧師などは伝説上の人間です。

 ヒトラーとキング牧師を並べるのはどうかって思われるかもしれないけど、明らかにキング牧師のしゃべりかたってのはヒトラーの喋り方にすごい似ていて、大衆を盛り上げるテクニック、っていうのはかなり丸パクリだと思います、内容が真逆というだけでテクニックは同じ。

 つまりは繰り返し、です。いやみったらしいくらい同じことを繰り返す。この繰り返すってのが演説、ってものの本質で、選挙演説でただ名前を連呼してるのもこの基本に忠実なんだともいえます。


漱石先生のそれってのはそういうたぐいの名演説ではなくて、しっかり聞くとなるほどなぁという内容をきちんと持っているものなり。
 漱石先生っていいますけども、漱石は49で死んでますから、すごい若々しいというかなんていうのか、老成したような意見を最後まで言わない、ずっと漱石がみずみずしい感覚っていうのを持たせるのは、老いぼれた漱石ってのが存在しないからなんですね。漱石の文体、ってのは新鮮さ、っていうのが主軸なのかもしれません。


 最終的にはこの演説は国家主義と個人主義というテーマになるのですけども、国家主義、っていうと今では悪の代名詞的な感じですけど、特にこの日本って国では。
 でもキレイゴト、って国家主義の倫理なんですよね。トモダチを大切に、とか社会の為になるように一生懸命働く、などなど、全部国家主義、の価値観です。道徳、っていうものは国家主義から来てる、けど実際の社会は個人主義、それも漱石が考えているような義務をもった自由による個人主義じゃなくて、単なる自己中心主義としての個人主義です。道徳の教科書の言うとおりに生きたらすぐに借金地獄で首をくくるハメになるのはそういうわけ。
 今では道徳、や倫理、っていう学問自体が存在しないものになっているようですが、時間がないのでこのへんで失礼させて頂きますw
 

1939 HUMAN LOST 太宰

 ドキュメンタリーなのかわかりませんが太宰治が脳病院、に軟禁されていたころの日記のような作品。

 とこどころちょっと狂気的であり、ほんとに脳がまいってるんじゃないか?と思わせつつ、おどろくほど切れ味の鋭い文章がザザっと書かれていたりして、尖りまくってる作品であります。

 キリストへの言及も多く、ある種非常に宗教的、2・26以降の世界についての意見などハっとしますね。2.26事件ってのは、すごく文学的な事件というのか、ある種太平洋戦争よりも、ドラマティックな事件です。太平洋戦争とかには、文学的な匂いはなく、ただ戦争があるばかりなのです。


 脳病院、というコトバも今では使われなくなったのかも?精神病院、瘋癲病院、キチガイハウス、フーコーじゃないですけど、このキチガイ、酔いどれ船、にはいつも文学的な匂いがそこはかとなく漂っている。

太宰ってのは、ゴリゴリの天才という珍しいタイプなんだなぁと改めて思います。ピュアなタイプの天才、社会的にどうにもこうにも上手く生きていけないほうの天才なんですね、こういうタイプの天才に憧れもするけど、やっぱりしんどいだろうなとも思ふ・・。

1939 太宰治 座興に非ず

短編なので感想を短編でシリーズ


 売り込みする作家ほど美しいものはない

2018年2月4日日曜日

1912  行人  夏目漱石

夏目漱石の代表作の一つ、だと思います。

 「この百合は僕の所有だ」


というセリフが(わたしにとっては)有名なやつ。


いつもどおりなのですが夏目漱石の作品は、純文学でありながら、謎解き要素があって、一体何をこの小説はいいたいのか?っていうのを読者は考えながら進んで、最後に種明かしがあります。

 とくに行人、はその種明かしが露骨というのか、ハッキリしていて、その種明かしだけで独立してるとも言える作品です。

プロットなどは読むしかないんですけど、この小説の特徴は漱石の分身である、頭が他のヒトよりも良いために親にも嫁にも家族にも誰にも理解されない「孤独だけが我が住処である」、というキャラクターが主人公ではなく、主人公の兄、という客観的に観察される対象として現れます、その悩める知識人、が主人公ではない、というパターンはたぶん今までになかったやり方なんです

「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るしかない」、しかし自殺する、という実際の行動、を選ぶことが出来ない人間であり、科学的知識が生半可あるので宗教を信じることもできない、自分がもう気が狂っているかもしれないというのが怖い。と大兄様、は言います。なんていうことをw マリリン・マンソンじゃないんだから。

 ドストエフスキーはギリギリの時代的に、最後には宗教に入るというルートを選びました、アリョーシャは宗教のヒト、として描かれていますし、ドストエフスキー自身も、どうやら最終的にカミサマを信じるに至ったというわけ。だけれど20世紀の人間である漱石には科学が進歩しすぎてそれが出来ない。
 といって、自害、という行動を取る勇気がない。僕を軽蔑するだろう?僕はわかっているのに行動が出来ないのだ。という感じです。

 とんでもないギリギリの内容を秘めた作品。最後の終わり方がぶった切ったような終わりかたで、たぶん本当は続きを構想していたんでしょうけど、途切れるようにしてこの作品は終わっています。

 後期漱石の死生観というか宗教観みたいなのが、直接的に説明されている作品なんじゃないでしょうか。

 血の涙が出るほど、神を信じて幸せになりたいと願っているのだけれど、科学がそれを許さない、という現代の知識人の絶望、というテーマは、20世紀、そして21世紀の今になってもずっと大事なテーマであり続けています。戦後、学生運動みたいな若者の社会運動が失敗した69年以降は、純文学自体がほぼ絶滅したってのもあるけれど、「考えない」、という答えが一応これに決着をつけたのかなと思います。

「何も考えない」、これが幸せ、というかカミサマに変わる手段なんですね、いまのところ。
 これは大兄様のいう、カミ、そのものへ悟りを開きつつのかもしれないし、完全な思考停止、ただの諦め、なのかはわかりませんね。