2018年2月12日月曜日

1914  こころ  こ、ろ 夏目漱石

 夏目漱石の代表作というよりは、日本文学の代表作というような作品ですね。日本文学の「戦争と平和」みたいなもんです。文学にまったくの興味0、活字を憎んでいて意地でも読まないというヒトを除いては聞いたことくらいはあるでしょう。


 この小説は明治天皇の崩御の際に乃木希典将軍が殉死したというニュースが発端となって創作されたようです。なんか面倒なコトバ使いですがつまり天皇の死と一緒に、軍隊の大将が後追い自殺をしたというニュースです。
 今では考えられないことですが、それが明治の精神であったともいえます。漱石にかぎらずこれは当時の人々にはかなりショッキングなニュースとして写ったようです。

「明治天皇が死んだ時に明治の精神も死んだという気がした、明治の影響を一番強く受けた私が生きているのは時代遅れのように感じた」

 というように先生も、明治天皇の崩御、をきっかけにして自殺をすることになります。一応明治っていうのは天皇を担ぎ上げる為に江戸幕府を倒したというスローガンでやってますので、もちろんそれは名目で、実際は社会変革するために既存権力を駆逐したクーデタです。

 それにしたって名目は守らないといけないわけで、明治の精神、は天皇中心の精神だったわけですね。

 そして明治の精神、と漱石そのものでして、漱石は明治に生きて明治に死んだ、明治そのものみたいな作家ですから、どうも漱石自身の遺書のように思えて仕方がないというのがこの小説。ただ漱石にはこんなロマンスみたいなことはなかったと思いますけども。



 たぶんだいたいの教科書には「こころ」が収録されてるんでしょう。けど、どう考えたって10代にこの小説の意味みたいなのはさっぱしわかんないですよね、一体どういうつもりでこれを教科書に採用してんだって思います、文章の綺麗さとかなら「草枕」とかでいいのに、こんなエグいというかディープな内容の物語を読ませる意味がわかんない。ワタシも教科書で読まされた時は、なんじゃこのネチネチした恋愛物語は、しゃらくせぇ。もっと面白い話を読ませろって思っていました。当時のワタシは吉川英治とかを読んでました、三国志とか宮本武蔵とかを読ませたほうがよっぽど為になるじゃないかってわけです。ちなみに吉川英治の三国志はワタシが初めて買った本です。


 ワタシは同じ本は読み返さないタイプの人間です、本などに限らず、もう一度やってみるってのは時間が勿体無いと思う、というか、多少面白くなくても、どんどん新しいものを吸収したほうがいい、って思うからです。そりゃ前面白かったものをもう一度やっても面白いに決まってるケド、それをやってると、どんどん閉鎖的になってしまうものですから。

 ケド「こころ」っていう作品は、2回読ませることを前提にしているような作品だと思います。最後に種明かし的にすべてが明かされるわけですけど、すごく単純に読むと、「先生」はKと静が結婚するのがイヤなので、静をNTRして、それでKが自殺してしまったのでそれを罪悪だと感じて最後には自分も自害する。というオチなんですが、そんなしょうもない恋愛小説ではないのは誰の眼にも明らかです。

 Kが自殺したのは、実は静を先生に奪われたからではないんじゃないか?っていうのを確かめる為にもう一度読むことを要請する作品なんです。最初から再び戻って、自分で自分なりの答えを考えないといけない。


 もちろん、明らかな答えはどこにも無いです。小説の冒頭で、主人公であるワタシ、は先生のことをA、やBみたいなアルファベットで呼ぶようなことは出来ないから先生と呼ぶ、ということをわざわざ説明する、ということは、親友を「K」と呼ぶ、先生にとって、K、が本当の親友なのか?っていうことがわからない。先生、の人格が、実はK、を自殺させてしまったのは自分なんだ、という悲劇のヒーロー気取りで、その実、先生、は自分勝手で利己的なくだらない人間なのかもしれないと取れる。
 

「先生」、がくだらない自分本位のエゴイスト(イゴイストの意味がわかってるのか兄さん!)だとすると、美人の奥さんをもらって、コドモは作らず、親の遺産だけで生活し何もしない、現代のNEETである「先生」はほんとうにクズ人間でして、存在する価値の無い人間です。自分でもそれを気づいていて、Kを殺した、という罪悪をむしろ自分の存在を証明する証としてそれにすがっているようにも取れる。そう考えると、K、という人物自体、もなかなか怪しくなる・・・・。

「先生」はKを救おうとしたけれど、Kが自分の好きな人と仲良くするのがイヤなので掠め取るように結婚したことを、自分もまた自分の相続財産を奪った叔父と同じような、自分の利害が絡むと、ヒトを裏切る悪人だとわかってしまった。自分が本当はくだらない人間だと自分でわかってしまったから自決したのだともいいます。


 憎んでいた敵、が自分自身に内在していると気づくというのは、現代的テーマでして、アメリカなんて!自由主義の悪癖だ!みたいなことを言っていても、物質的快楽には誰も抗えず、スマホ新しくしよー!強欲は正義ー!みたいなことを言うようになります。
 ちなみに主人公の兄、は実務的人間で、働いてない人間を人間とも認めない、とあって、カネを稼がない人間はクズ、と断罪する戦後の世界の象徴でもあります。



 先生のロマンス、と同時にこの小説には、人間の嫌な部分、最終的に自分の利害に関わると結局全員悪人であり、キズナだの平和だのクソみたいなキレイごとを並べるが、自分の腹は切らない。主人公の母親のように善良ではあるが愚劣である田舎者が大半で、最終的には「ココロ」の通じ合わない存在ばかりである。それに加えて病気、お金のために働かなきゃいけないこと、生活、の苦しさ・・・
 果たして人間社会で、生きていくこと、が本当に意味のあることなのか?っていうプロットが同時に進んでいきます。


 これはワタシなりの結論なんですけど、この小説ってほんとのほんと、のことを主題にしてるんだと思うのです。それは

「本当はもう生きていきたいとは願ってない、本当の本当は死にたいと願っている、本当は生きていくことの価値を認めていない」

 っていうことなんだと思います、それがこの小説が本質的な小説であり続ける理由なんだと思うのです。

 このほんとのほんと、っていうやつは、言ってはいけないことなんです、最大のタブーですよね、だってそれを言ってしまったら、もう全否定。めちゃくちゃです。この世界をすべてを否定してるのと同じです、当然自分の存在も含めて、小説、それ自体の否定でもある。
 けれどココロ、の底では、このほんとのほんとがいて、それを見ないフリをしてる。誰もがその最大のタブーを隠している。

 作品の善し悪しってのは結局はそれは作者自身がそれを本当に信じてるのか?っていうところに帰着するというのが私の考え。「この世界には価値があって、本当にこれからも生きていきたい」、って作者がそれを信じてるかどうか・・・


 そしてどうやらこの作者は、それを信じてないような気がするのですが・・?

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 こっからは蛇足ですけど、それが、この小説を教科書に載せるやつの意味がわかんないってことなんです、もしかしてこいつら誰一人、この小説の意味がちっともわかんない感受性0の、ココロ、が無い人間なんじゃないか?ワタシが10代のころに感じた違和感はそれなんです。この小説は、生きることの否定という本音を吐露してる作品です、告白です。何にも考えないで何も感じないで、ただ有名だからってことで、読むフリをする。こんな人間ばっかりなのか?だとしたら漱石の感じてる通り、この人間社会ってのは、実は、全く価値の無いものなんじゃないか?ってことか・・・

 Kは愛する人を親友に奪われたことで死んだのではなく、この世界にひとりぼっちだということが淋しくってしんだのではないか?という先生の疑い通りですね。


 ひとりぼっち、というコトバをはやらせたのは漱石だと私は思ふ、ぼっち、というのも現代のコトバですけど、これもえらく本質をついたコトバですね。