2018年2月4日日曜日

1912  行人  夏目漱石

夏目漱石の代表作の一つ、だと思います。

 「この百合は僕の所有だ」


というセリフが(わたしにとっては)有名なやつ。


いつもどおりなのですが夏目漱石の作品は、純文学でありながら、謎解き要素があって、一体何をこの小説はいいたいのか?っていうのを読者は考えながら進んで、最後に種明かしがあります。

 とくに行人、はその種明かしが露骨というのか、ハッキリしていて、その種明かしだけで独立してるとも言える作品です。

プロットなどは読むしかないんですけど、この小説の特徴は漱石の分身である、頭が他のヒトよりも良いために親にも嫁にも家族にも誰にも理解されない「孤独だけが我が住処である」、というキャラクターが主人公ではなく、主人公の兄、という客観的に観察される対象として現れます、その悩める知識人、が主人公ではない、というパターンはたぶん今までになかったやり方なんです

「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るしかない」、しかし自殺する、という実際の行動、を選ぶことが出来ない人間であり、科学的知識が生半可あるので宗教を信じることもできない、自分がもう気が狂っているかもしれないというのが怖い。と大兄様、は言います。なんていうことをw マリリン・マンソンじゃないんだから。

 ドストエフスキーはギリギリの時代的に、最後には宗教に入るというルートを選びました、アリョーシャは宗教のヒト、として描かれていますし、ドストエフスキー自身も、どうやら最終的にカミサマを信じるに至ったというわけ。だけれど20世紀の人間である漱石には科学が進歩しすぎてそれが出来ない。
 といって、自害、という行動を取る勇気がない。僕を軽蔑するだろう?僕はわかっているのに行動が出来ないのだ。という感じです。

 とんでもないギリギリの内容を秘めた作品。最後の終わり方がぶった切ったような終わりかたで、たぶん本当は続きを構想していたんでしょうけど、途切れるようにしてこの作品は終わっています。

 後期漱石の死生観というか宗教観みたいなのが、直接的に説明されている作品なんじゃないでしょうか。

 血の涙が出るほど、神を信じて幸せになりたいと願っているのだけれど、科学がそれを許さない、という現代の知識人の絶望、というテーマは、20世紀、そして21世紀の今になってもずっと大事なテーマであり続けています。戦後、学生運動みたいな若者の社会運動が失敗した69年以降は、純文学自体がほぼ絶滅したってのもあるけれど、「考えない」、という答えが一応これに決着をつけたのかなと思います。

「何も考えない」、これが幸せ、というかカミサマに変わる手段なんですね、いまのところ。
 これは大兄様のいう、カミ、そのものへ悟りを開きつつのかもしれないし、完全な思考停止、ただの諦め、なのかはわかりませんね。