2018年2月25日日曜日

1915 道草  夏目漱石

 「こころ」という文学史に輝く作品の次に書かれた作品なのですが、漱石のなかでも特別にマイナーな作品です。ハッキリ言うと全然人気の無い作品。

 内容は、私小説風、と言われていて、漱石自身が作家としてデビューした頃の話と、漱石の幼年時代が書かれている、自伝的な作品です。もうすぐ死ぬな、という予感を持っていた漱石が、自伝を書いておこうと思ったのでしょうね。


 小説としては、大したオチがあるわけでも、フリとオチなどの構成なども何もなく、ただ淡々と日常が描かれていて、カネカネカネの世の中と、分かり合えない夫婦、懐かないコドモ、世知辛い世の中、自分がもしかして優しくないだけなのではないか?自分には情が無いのではないか、という孤独感、まわりがバカに見えて、いつもなんとなく面白くないという知識人の悩みなどなどなど・・・、アンチ小説、とも言える、あえて面白くなくした、みたいな作品となっています。人気がないのも頷ける。もう人気などを取りに行く必要がなくなってる作家の作品だともいえます。

 
 漱石は幼少時に養子に出されて、後にまた実家に引き取られたという過去があって、これが最後まで漱石にはトラウマとして残っていたようですね。要するに「親から捨てられた」、ということがついに死ぬまで忘れられなかったといえます。

 
 ハリウッド映画などを見てわかるように「そうはいっても家族愛」、的なオチを持つものは数多くあり、ガチでそういうことを信じてる人間も大勢います。彼らは要するに運が良くって、生まれに恵まれたということなんですが、彼らにとってはそれがセカイのすべてで、一般的、な家族のあり方だと思っている。母親は当然コドモを愛しておって、父親は家族の為に頑張って働く、これが正解であり、正しいっていう。ヒップホップでいうところの、家族にマジ感謝っ!っていうやつ。



 ワタシみたいにそういうのがゲロを吐いてしまうくらい苦手なヒトも少数ながらいます。コドモの面倒は親が見るもの、っていうのは結局コドモを見捨ててるだけじゃんか、コドモに権利はなんにもないのかよ。って思う。クソみたいな家庭に生まれたコドモがあまりにも無権利すぎる。
 ワタシは家族っていう制度がなくなればいいと思っています、コドモはみんな国家のコドモとして扱われて、同じスタートラインからスタート。プラトンのポリテイア的な考え方ですね。そうしないと、生まれた家柄でほとんど人生が決まってしまって、生きてくことや努力することにモチベーションが持てないですからね。

 古代ギリシャにはスパルタみたいに実際に家族制度をなくした国家もありましたが、キリスト教以降、家族、という制度を撤廃した国はほぼ無いんじゃないですかね、小さいコミュニティではあるのかもしんないけど、家族制度を持たない国っていうのをワタシは知りません。

 よく格差、閉塞感、階級制度、とかいいますけど、そのすべては突き詰めれば「家族」という制度によるものです。けどそこには誰も踏み込まないし、母と子の美しい愛情、みたいなイメージは未だに死ぬほど繰り返されているし、家族制度を公に批判してるヤツなんて普通のメディアではほぼ見ませんよね。
 家族制度、っていうのは動物としてのDNAプログラムに入ってるものですから、理性を持った人間というのは少数派なわけで、本能によって行動する大多数に対して意見が通ることはありません。けど虫とかには、家族、単位ではなくて、種とか、コミュニティの存続単位で動く生き物もありますよね。やっぱ虫ってのは異星人なのかもしれませんなぁ・・・。


 結局この「道草」っていう作品は漱石による「家族論」ともとれます、妻、コドモ、妻の父、自分の里親、実の親、姉夫婦、兄夫婦と、登場人物はほぼすべて家族、だからです。

 ワタシは漱石の言いたいことがすごくよくわかりますけど、「マジ感謝!」の人々にはな~にをグダグダ文句ばっか書いてるんだ漱石は、って思うのでしょうね。
 結局会いに来るやつは全員カネが欲しいという人間しかいない。

「みんなおカネが欲しいのだ、そしておカネ以外何も欲しくないのだ」

と強烈な皮肉も書いています。この漱石の、人間社会に対する辟易、うんざりっていう感覚がわかるわかる!っていうヒトにしか面白くない作品ですねこれは。