たぶん名前だけはみんな聞いたことがある本、ワタシはもっと古い本だと思ってたら1890年、さらにフレイザーは40年近くも改訂を続けたので、完成版は1930頃って感じです。
オリジナル版?決定版、みたいなものは膨大なページ数なので、本人による要約版があります、ワタシは要約版のほうを読んだ。
ようするに、これは古代からの民族の神話のエンサイクロペディアみたいなもんで、いろーーーーんな、儀式やら習慣、祭り、などをかき集めたものです。
どれだけ例を集めても証明にはならない。と古来から批判されていますが、証明、が可能なのは数学という特殊な学問のみで、その数学ですら証明不可能、な問題もあるというわけで、とにかくデータを集める、というのはワタシは悪手だとは思いません。
自然科学、というやつも、ようするにはデータを集めているだけです。そのデータから法則を導き出して数式にするわけですが、数式化可能なものは、たまたま数式化できるものだけです。すべては数式化できる、って理論物理学者とかはいいますが、ワタシはそうは思わない。
それは魂が・・・みたいなスピってるものではなくて数式化出来ないものは、言語化も出来ない、いわばノリとか間、とか雰囲気、ってものです。数学的にまったく同じものでも、なんかノリや雰囲気が違うってことがある。
ワタシは全く同じものでも、全く別のものであるもの、があると思います、つまり、この1と別の1、同じだけれど全く違う、というのが現実にはありうる。そうすると数学的分析は失敗するというわけ。
とにかくたくさんデータを集めれば、だいたいどんなふうに習慣や世界観が作られるかのパターンってのがあるはずだってのがこの本の趣旨です。これは常識的に、然りと言うべきでしょう。
この本はこの手の文化人類学?の学問の始まりの書みたいなもので、この本が語っている説や結論に反論するヒトはいるかもしれませんが、何を研究するのか?語り方、用語法、構文、分析の仕方などなどなど、この本が与えた影響は甚大です。しゃべり方そのものを発明したと言って良い。コトバそのものを作ったって感じですね。
心理学と同じようにこんなのいろんな与太話の寄せ集めで学問でもなんでもない、って言うヒトもいますが、それを言ったら人文学系、経済学も含めて全部学問じゃなくなります。自然科学と数学だけが学問になる。ま、それも一理ありますけども。
でも文学、が時代の動きを作るってことがよくあって、ヒトの人生も、たまたま読んだ一冊の小説から、一生の道筋が変わるってこともある・・・いわば人文学系ってのは「目的」を考える学問です、「科学」は目的を与えはしませんから。
確実に名著と呼ばれる本、正しいのかどうかは知りませんが、こっからすべてが始まった、つまりバイブルですね、読むのは固有名詞のオンパレードで何がなにやらわからなくなって結構しんどいですが、やっぱり読むべき本。およそ100年前の本ですが、これはまだあともう100年は残り続ける本です。