三四郎は実は前にもブログに書いているのですね、けど遠い遠い昔のことで、すげー淡白な感想しか書いてません。
夏目漱石っていう人間は、たぶん・・・日本の芸術界、の中で未だ持って一位に君臨しているのだと思います。ドイツの芸術の最高峰はベートーヴェン、イギリスはシェイクスピア、フランスはこれは評価がワレますけどバルザック(かランボー、かヴェルレーヌか、ボードレールか等々好みが別れますねー)
ともかく日本を代表する芸術家は誰?とアンケートをとったら、たぶん漱石が圧倒するんじゃないでしょうかね。それは芥川にせよ、太宰にせよ、他のどんな作家にせよ、仮想的、っていうか超えるべき壁であり目標としてずっと漱石はいると思うからです。小説家じゃなくっても、物語を作る人には絶対漱石、ってのはどっかに残ってる、ロックバンドに対するビートルズみたいな存在ってわけです。
三四郎は其の中で、中間点に位置する物ですよね、たいして三四郎自体が、屈指の名作だとはだれも思わないでしょう、けど漱石が、猫だの坊っちゃんだの、草枕だのって、ある種洒脱な、軽い感じの作品の名手としてデビューしたけれど、三四郎以降は、すべて、生と死っていうか、主人公はほぼ100%深刻な鬱病っていうか、漱石いわく神経衰弱を抱えた青年、に限られるようになる。つまるところ三四郎は、純文学、ってものの出発点なんですね、それは漱石の、じゃなくて、日本文学の、日本の物語文化の、この時点から純文学ってものが始まるって言っていいと思います。
それ以前の美しい文章を書く、漱石、から、文章の美しさよりも、人間の内面へと切り替わっていく。
本当はそれはタブーなんですよね、本当のこと、生きてく意味なんか無いぜ。あるいは神様なんかいないっていう本当のコト、それを言うのはずーーーーーーーーっとタブーだったわけです。その本当のコト、と向き合うとこから純文学ってのが始まる、
純文学以前の芸術の仕事ってのは嘘をつくこと、だったわけです、それが本当のコトを言うことっていう風に、パラダイムが180度変わっていって、それくらい純文学の誕生ってのはものすごい衝撃だったわけですね、それは今でもずっと続いてると思います。
けど実際には、嘘が真実に劣っているってのは、純文学が勝手につくった価値観でして、嘘は真実よりも価値のあるものなのかもしれません、真実ってものにこれほど価値が置かれたのは丁度日本では100年前、西洋ではおよそ200年前の出来事、これが絶対の価値観じゃない、長ーーいこと、嘘は真実よりも大切にされてきた。嘘のコトを昔の人はキボウと呼んできたし、現在では幻想だって言われてる・・・・
そんな深い話は切り上げますけど、つくずくIは漱石と宮﨑駿ってのを重ねて考えてしまいますね、両方とも本格的デビューはメチャクチャ遅い30代の終わりですので、突然完成された形で
いきなり世界に現れた、そっから10年の間に主要な作品を一気にすべて完成させる、漱石はそれですぐに死んでしまうわけですけど、駿氏は割りと長生きします。けど駿氏がルパン、ナウシカ、ラピュタ、トトロ、耳をすませば、で死んだほうが、なんとなくスッキリしてると思いますね。Iはもののけは大失敗だったと思いますねー、別にそれは詳細しませんけど。
両方共、国民的、作家です。けどふたりとも結構なヤヴァいヤツで、奇跡的に世間に受け入れられてる。アニメーターや漫画家はずっと其の存在を忘れられないでしょう、そいで100年後に、図書館みたいなところに作品が残ってるのは結局駿作品のいくつかだけって気がすごいする。