2012年2月11日土曜日

旧約聖書 サムエル記

まさかのサムエル記。
聖書は少しづつ読むことにしてますが、新約は僕にとっては全然面白くないです、というか同じ話を四回も繰り返されてもたまらないし、新約聖書は所詮プロパガンタ的で、文章として価値が無い、別にイエスを否定する気持ちはありませんが・・・嘘です、イエスも個人的には好きでない。科学的進歩はアリストテレスの否定によって進んだ、倫理的道徳的変化はキリストの否定により進むでしょう。

逆に旧約は、その読みにくさも含めて非常に面白い。サムエル記では、ユダの民が王を求めるという決定的な場面があります、神もサムエルも王を求めないのに民が王を求める、なんじゃこれは!民が王を求める・・・、それは一体なんなんだろう?サムエルははっきり、王は民を隷属させて、圧政の下に置くと予言します。それなのに民は王をまだ求める、なんで王が生まれたのか、ということは、人文学的な研究は色んなとこで行われているのに、永久にハッキリしっくりこないのに、最も重要なテーマです。

王、この述語が持つ意味は、実戦理性においても・・・決定的です。そして神はサウルを王にするのですが、神はサウルを王にした事を悔やむ、えっ!なんじゃそれは・・・、神は王の人選に失敗したのです、そんな事ってあるだろうか・・・、旧約の基本的流れは、神の言うことを聞かない人間を神がやりたい放題に殺しまくる、それなのに神が間違えてたら・・・。無茶苦茶である、でもその無茶苦茶さが・・・やっぱり面白いんでしょうね・・・旧約の神はサイコロをフリます、新約の神は、ふらないということになってますがね。でも・・・実際の現実世界に目を向ければ、新約の神は、人間の生み出した幻想のように思えます・・・