2012年5月14日月曜日

悪霊 別巻 亀山郁夫 光文社

 Dの作品に対して面白いとかつまんないとかよく出来てるとかいってもしょうがないので違う話をします。
悪霊のコアにあたる部分、スタヴローギンの告白には検閲の関係などでテクストが多数存在する、その混乱を解決しようというのがこの本で、結局代表的なパターンをすべて出すという方法を取っています。いつものことですが、この亀山訳にも難癖がついてます、誤訳だとかも言われてますが、どうでしょうかね。どうせ原文をロシア語で読むしか納得しない人が難癖つけてますね、しかもそういう奴ってロシア語教えて金を取ってる連中だったりして、JASRACが著作権の大切さを説いてるみたいなきな臭さを感じますね。どうせ翻訳なんてそんなものだし、ロシア語を読んでも結局誤解はあると思います、日本人が日本語読んだって、誤解するし、理解するってことは結局は理解不能のプロセスですから。Dを本当に理解するならDよりも優秀な人でないといけないでしょう、そんなやついねぇきがします・・・

告白は、大審問官とまったく同じ構図で、違いは、チーホンはキリストじゃないってとこだけです。チーホンはスタヴを救えませんが、ハリストスはインクィジトールを救うってわけです。
悪霊というタイトルは、ちょっとわかりずらいきがします、悪魔って直接言ったほうがいいと思うけど、それだと、強烈すぎるのですかね。

個人的に、スタヴローギンが無関心病と退屈でいっつもピストル自殺の事ばっかり考えてたとさらっと言ってるのが、10才の少女をレイプした事よりも大事な気がします。自殺=現代の(文明)病って構図のはずなのに150年前の小説にばっちり登場してるのはなんででしょうか。いっつもなんかワープ感があります、二次大戦の当時の人々が愚劣すぎてもっとずっと古代の人のように思えるのです・・・

たぶんこの世にはDはの小説の主人公たち、ラスコーリニコフやイヴァン・カラマーゾフやスタヴローギン、キリーロフ、地下生活者、それくらいしか友達や自分を理解してくれないっていう状態に追い込まれてしまってるひとがゴロゴロいるんでしょう、スタヴローギンの罪は、キリストの接吻によって救われるかもしれないけれど、その退屈さと無関心病は誰が埋めてくれるんでしょうか。

Dは近代の超越に失敗しました、ニーチェも失敗したと言われております。でも最近ニーチェは梅毒で脳みそがやられたんじゃないっていう報告を読みました、梅毒に脳をやられていたんだとしたら、10年も生きれるわけないってわけです。もしかしたらニーチェはそれを見つけたんじゃないかっていう気がします、ニーチェは気が狂ってスカトロジーや幼児行動をするようになったと言います、まさか?
ニーチェは正気だったのか・・・・・正気で合理主義を否定することに成功したのか?気が狂ったんじゃなくて、本当に・・・・・・