1948年が太宰の自殺した年です。
桜桃
要するには、自分の息子がもしかしたら白痴かもしれない・・・という恐怖という物語なのですが、この作品は結構有名です。太宰の自殺の理由の告白ともとれるからでしょうか。
自分の子供がもし障害者だったら、こんな恐怖はありませんね、何より恐ろしいことだとも言えます。ワタシが結婚も子供もほしくない、一番の理由かもしれません。障害者の子供を抱えて、支えていくなんて絶対に無理ですものワタシには。金銭的にもそうだし、精神もズタズタになるのがわかりきってる。
障害者の子供というとどうもワタシには、大江健三郎が思い浮かびますね。太宰も同じだったというわけですが
饗応婦人
どうでもいいことなのですが、漢字ってやっぱ難しすぎる
酒の追憶
酔いどれ日記
女類
酒と不倫、という後期太宰の典型的短編なのですが、これはその中でも秀作。スバラシー。太宰自身は自分のことをのんべえみたいに描いてますけども、太宰の戦後の仕事のスピードはものすごい。普通の作家が20年かかるようなことを3年くらいでやってるペース。こんな真面目な作家はいません。
家庭の幸福
家庭のエゴイズムは、個人、のエゴイズムよりもタチが悪いという話
渡り鳥
風刺的に、軽薄な風潮のマスコミ業界を野次った作品。戦後にはよく、俗物、というコトバが登場しまする。
眉山
眉山というあだ名の女店員についての話
美男子と煙草
太宰が上野の浮浪者の集まりを見学に行った時の話。浮浪者の群れ、というのはアメリカ的資本主義の象徴でもあります。娯楽、と浮浪者。これがアメリカだとワタシは思っています。ラジオについての話もあります、戦前はひどいものだったが、戦後にはアメリカ式の娯楽が導入され、音楽などの構成も飽きずに楽しませるように工夫されるようになった。なにかこのラジオ、そしてテレビ、が普及すると一挙に大衆主義、俗悪さがとめどなく溢れ出るような気がしますね。そして文学というものは存在しなくなる。
月岡芳年という人が最後の浮世絵師と言われたものですが、太宰ってのはそういうわけで最後の小説家なのかもしれません。そのあとの文学ってのはもはや斜陽の文化。物好きが読むだけのもので、文化としての主役としての役割は失われました。三島にしろ大江にしろ、一体どれだけの人が読んでるのかって話で、特に大江なんて読んでる人はワタシの周りには一人もいませんでした、日本文学の先生くらい。
グッド・バイ
未完の作品。絶筆になった作品としてはおや?と思うほど軽くて、明るめの感じの作品。いままで何またもかけてきた恋人たちをフルという主旨ですが、コミカルなタッチです。
しかし
「戦後数年たって、何かが変わってしまった・・色即是空、酒も女も魅力を失ってしまっ
た・・」
っていうのは、もしかしたら太宰の本音なのかもしれません。軽めのテイストの中に一番えぐい本音を放り投げたのかもしれませぬ。
色即是空。
色即是空ってよく聞くけどなんなのじゃ?とおもうてちと調べてみると、般若心経に出てくるコトバなんですね。
般若心経ってじゃあなんだっけって調べてみると、これは大乗仏教の経典の一つであるとのよし。
大乗仏教ってじゃあ何?っていうと、マーハヤーナって呼ばれているそれは、仏教の分派の一つです。しかしその起源などは謎。玄奘が7世紀にインドに行って持ち帰ってきた経典の一つに般若心経も含まれていたらしいです。
仏教もキリスト教のように時代が下るにつれて派閥に分かれて行きました、なぜ?って言われてもわかりませぬ。
色即是空、っていうのはめちゃばっさり言うと、すべてのモノは、カラッポである。という意味みたいです。
ワタシ個人の見解ですけど、この虚無思想っていうのか、空の思想。っていうのほど危険な思想はないし、一番の過激な思想だと思います、簡単に色即是空だわ・・・みたいな感じに使っていいコトバじゃない。なぜにこれが一番危険かというと、これが一番真実だからです。すべてはカラッポ、何をしても意味が無い。まさしくそのとおりだからです。反論の余地がなんにも無い。会話にもならん。すべての終わりみたいな考えです。
この空の思想ってやつは大乗仏教が生み出したもので、ブッダが考えたものでは全然ありません、それよりもずっと後の思想。
ワタシは思うのですが、これって、言ってはいけない約束じゃん、それ言う?っていうヤツだと思うのですよね。
「なんで変身中に攻撃しないの?」
「いやどうせフィクションじゃん」
みたいなコトと同じで、それ言ったら確かにそうだけど、粋じゃないです。かっこわるい、可愛くない、みんなをつまらなくさせるためだけのコトバ、悪意の塊です。
虚無に飲まれることほど恐ろしいことはないぜ・・・。