2012年1月4日水曜日

幻想の未来 文化への不満

フロイトは実存主義をやってるというのが感想。
実存主義とはつまるところ、宗教がやってくれたことの哲学による代替である。
宗教は、生も死も、完全に保証してくれる。しかし科学や時代の変化がそれを
信じ続けることをかなり困難にした。哲学には当然死の世界について語る事は
できないので、死後の世界に保証をすることはできない、よって生をどう生きるかを
扱う。極限まで切り詰めれば、実存主義哲学は、「生きろ」
という事だけを証明しようとしている・・という言い方でなければ
生きよう、と言うだけの哲学である。
 だから実存主義はキリスト教を否定せざるをえない、キリスト教は
別にキリスト教に限った事ではなく宗教は一般的に死後の世界に無限の価値を置くから・・
 結論からいうと実存主義は、科学的な装いをしようとしたあげくに
歴史ややら、エスノロジーやら、なんやらかんやら、結局は科学とは
似てもにつかない文系の学部を大量生産したあげくに
ウィトゲンシュタインの冷酷な論理構造にトドメをさされてすべてを
投げ出して、ただの文学になった。別にただの文学を私は否定してない。

 
 しかしフロイトには誠意があるからフロイトを読む意味はそこだけでも充分にある
フロイトは大衆は愚劣だし、愚劣から抜け出すことも無いときちんというし
外界に拒否されれば、精神病に陥るか麻薬漬けになるよりほかに方法が無いとはっきり
言う。そして自分は考えてみたが何の解決も得られなかったときちんと謝罪までする。
隣人を愛すのは不可能だし、汝の敵を愛するのも同様に無理だと言ってのける。
そんな人間は実は学者にも少ない。

 共産主義の人間の本質的側面からの否定、つまるところ人間は平和や人類愛や
ユートピアを求めていないということ、もっと詳しくいうなら、ユートピアと
血みどろの戦争を両方が欲しいのである。人間は両義的であるがブンレツしていない、
矛盾しているということがココロの唯一のあり方である。
 フロイトは共産主義を失敗すると確信しているけど、それに希望を持たざると得ない
というこれも両義的な結論を下しているので、やはり文学的である。