2018年5月17日木曜日

1814 南総里見八犬伝

 なんといえばいいのか、日本にはあまり見られない超冒険活劇エンターテイメント物語です。このタイプの小説って日本にはずっと無かったので異色な作品。源氏物語は日本という枠組みだけではなくてセカイの文学でも異色中の異色の作品なので、それ以来ですね。ともにめちゃくちゃ長い連載ものですが、源氏が恋愛?もので、これは軍記モノ?軍記テイスト和風ファンタジーです。 
 龍が出てきたり、役行者、なる仙人みたいなのが出てきたりと、超現実的なフィクションでありつつ、だいたいの語りの手法は軍記物のソレです。そして勧善懲悪、因果応報を元にした仏教譚でもあります。



 WIKI情報ですが曲亭馬琴、滝沢馬琴は、日本のはじめての、プロ、の作家のようです、他にもいますが、とにかくプロ作家、の第一世代であることは疑いなし。
紫式部やら清少納言みたいな貴族(の家族)、あるいは高僧、朝廷官吏、みたいなエグゼクティブがどこの国でも文字情報を残すものですが、曲亭馬琴は生まれは武家の奉公人、それを転々として、作家、だけで生計を立てていくようになったとのこと。生計を立てていくというと主観的な話しですが、誰がカネを出してるか?というとわかりやすいですね、大衆、がパトロンになってる初めての作家というわけです。どんなものでも、誰がカネを出してるか?を見てしまうのがオトナの悪いところであり、賢いところでもあります。

 イギリスでいうとディケンズ、的な存在ですね。フランスでいうとユーゴー、デュマ、バルザックってところですか。だから、日本の作家、の始祖的な存在なんですな。こっからどんどん文学業界みたいなのが生まれて来る、こういう職業作家のパイオニア達に共通してるのは、面白い作品だってことですね、エンタメ作品です。文学ってのはエンタメ作品からスタートしていて、純文学みたいなお硬いノリってのはこのパイオニア達のフォロワー、特にトルストイ、ドストエフスキーとかのロシア文学から来てるんだとワタシは思うものなり。純文学が文学のルーツで一番偉いというのは、ほんとは違う。

 もっと範囲を狭めるとワタシは純文学っていうのは、ドストエフスキーの白痴、悪霊、カラマーゾフを踏襲したスタイルだと思います、罪と罰は探偵小説だし、トルストイの戦争と平和は、結構なエンタメ傾向です。特に白痴、ですかね。面白さ、を全然追求してないしロマンスでもない、まったく別の、存在論みたいなのがテーマになっています、悪霊はそれ独自の群集犯罪心理小説みたいなジャンルだし、カラマーゾフは宗教小説みたいな色合いが強い。

 さてこの八犬伝は仏経物語であるので、宿業、因縁、カルマというのが物語の中核になっています、ある行動をすると、それがまわり回って戻ってくる。天命、宿命に従って物語が展開します。

 実はこの作品とワタシにもそのカルマがあって、ワタシが住んでるところは千葉の矢切の渡しにも近いところなので、南総里見八犬伝の舞台にかなり近いというわけ。馴染みのある地名がたくさん出てきます、この時代からその地名なのか・・っていうふうに。もちろんこの作品はフィクションなのですが、歴史フィクションであって、事実を元にしてるところもたくさんあり、空間的な地名とかそういうのはおそらくほぼ事実を元にしてるはずです。だいたいは実際にある地名。

 おそらく八犬伝を読んだことがあるヒトは相当少ないと思うのですが、その影響はかなり身近なところにあります。玉が散らばっていってそれを集めるという物語、そう、ドラゴンボールの元ネタがこの八犬伝ですし、昔あった大神、というゲームも八犬伝が元になってるし、八犬伝を本歌取りしたマンガも現在連載されてるみたいです。こんな200年前の物語が未だに根強い人気を持っているというわけですね。
 

 現代に読むと、やっぱりこの時代のノリってのが今とだいぶ違ってるよなぁと思います。倫理観ってのはほんと時代とともに移り変わる、何が正しいとかもすぐにコロコロと変わっていくものです。曲亭馬琴が江戸時代中期の人間で、江戸時代中期の人間が、戦国時代初期の物語を描くという、その歴史感とかセンスも現代、の人間が戦国を語るセンスとは全然違う。

  殉死は男子の本懐である! と言い切ってますが、これがたぶん現代の感覚といちばんズレてるとこですよね。親よりも自分の命よりも君主を大事にするってのは江戸時代の封建主義の政治的な倫理でしょうけど、死ぬ時は潔く、というのはもっと別の流れを持ってるという気がします。儒教も仏教も、そこまで自殺は素晴らしい!みたいなことを言ってはいません。釈迦も孔子も自害はしてないですし。逆にイエスは自ら処刑を求めに行ってるフシがあるのですけど。

やっぱり戦後、武士道に変わって、支配するのに便利なキリスト教的価値観をGHQにたたきこまれて、出来る限りの生き残る努力をするのが良い、というのが、スタンダードになっています。
 ということは、結局のところ、上から教え込めばなんでも信じるというのが民衆の価値観でもあるってことなんですよね。その時代の価値観、に振り回されるのはイヤですけれど、それを無視すると世間から村八分に合う。これはいつの時代も同じです。
 それと戦争に負けると価値観を奪われる、っていうのも恐ろしい話です。命を奪われるというよりも、実はこれが重大な精神的ダメージとなりますね。何が価値があるか?という基準自体を変えられてしまうと。

 よく考えると戦後日本に与えられた価値観はおかしいって気づきます、命が平等で、全部大切にしなきゃならん。ふむふむ・・・

 それじゃあ戦えなくない?

 封建主義は階級社会であるけども、じゃあそもそもなんで階級が必要なのかというと、差別や既得権益層の利益独占のためっていうことも当然ありますけど、それは後から、悪いやつが社会構造を自己利益のために悪用してるだけで、そもそもは、階級というのは、戦争、するための指令系統です。きちんとヒエラルキーが無ければ戦えない、全員平等で意見の交換などしてたら絶対に作戦はまとまらないし、結論が出るまでにやられてしまう。本文中で何度も書かれますけども「兵は拙速を尊ぶ」

 拙速、というのは、多少雑でもとにかく速い、というコトバです。

昔の人間とて、アホでは無いのだから階級の無い平等な社会が望ましいのは理解してました、けれど、それでは戦えない、滅んでしまうよって、やむを得ないが身分制を導入したわけです。だから封建主義というのは古臭くて間違ってるっていう認識は誤ってると思います。必要があって生まれてるわけですね。


プロットも現代の感覚からするとすごく斬新極まりないです、なんじゃその展開!?ってのがかなり多い。なんだ助かるんだ・・やっぱ死ぬんかい!!ってのが相当多いw 現代の物語感覚では助かるところをことごとく死にます、これがやっぱ時代ですね。死ぬ時は死ぬ。特に若くて美人の女はすぐに死ぬ。
 若くて美人の女は助かる、っていうのがたぶん現代の物語の90%以上を占めてると思うので、これがすごい斬新に感じる。テレビでも映画でもマンガでもなんでも若くて善良な美女が死ぬってのを最近見ましたか?

 それと似た人間を身代わりにして助かるというトリックが何度も使われてます、とても似ていたので・・・。っていう。現代感覚でいうとやっぱりこれも、まじかよ?って思うけど、この時代的にはそれはアリなのかもしれません。今みたいにググったり写真で見たり出来ないので、そいつの顔、ってのが流通してないというわけですよね。背格好が多少似てるだけですぐに騙せる。だから首を斬ってそれを証拠品として運んでいくわけです、写真の変わりに、残酷なんじゃなくて、ソレ以外確かな証拠、というものが無いんですよね。じゃなきゃあんな重くてかさばる、しかもすぐに腐るものをわざわざ持っていかない。

 携帯電話、の登場がミステリーをほとんど不可能にしました、いや電話しろ、で、すべてのトリックが暴かれてしまう。たいてい殺人が起きる舞台は都合良く電波が入らなくなる・・・。写真もそうで、写真が無い時代だからこそ使えるトリックですよね、あと写実的にデッサンを描くという技術も無いというわけです・・・。
 それもやはり大きい問題でして、この小説、八犬士が揃うまでめちゃくちゃ時間がかかりますが、やはり携帯が無いからなんですね、いったんはぐれるともう一度出会うまで普通に3年とかかかりますし、いつか会えるだろうと日本中を歩くことになる。そんなことで会えるわけ無いじゃん、っていうくらいw 適当に諸国を歩きます(まぁ会えるんですけどねもちろん小説ですから)
 会えない、という理由が、時間と空間的広がりをもたせることにもなるわけで、昨今の物語、には時間と空間がほとんど無かったりします。


 それとすべてカルマ、が問題になっているので、敵、が悪いやつしかいません。ともに優れた好敵手!いざ決戦!というのはほぼ無い、敵は全部品行も悪ければ行動も悪い、武力はあっても脳筋で、犬士たちにとって、好敵手、みたいなのは一切登場せず(いてもなんだかんだいって殺さない)ネチネチと汚い手を使う悪い奴らしかいません。そういう悪い奴らが、カルマ、によって死ぬ、という物語だからなんですね。毒婦、悪女、も非常に多い。


 しかし何よりそのヴォリュームの多さが読み下すのはしんどいです、まぁもともと連載的に30年近く続いたシリーズ物を一気に読んでるのでさもありなん。途中ちゃんとこれまでのあらすじ、みたいなのを説明ゼリフでしゃべるのもそういうわけです、読者も途中でなんのことだったっけ?誰だっけ?ってなるのを作者も想定済み。
 それでもやっぱりそれよりも速く人物を忘れてしまう、この昔風の名前が全然入ってこない。ガイドブック的なものがめちゃ出てるのでそれを片手に読むべしですね。
 


 新潮社版の原文そのママ、もありますがこれはまぁ誰が読めるねん、っていうものです。岩波版もそう。実質現代語訳の全訳は言海書房 丸屋おけ八訳しか出ていません。あとはだいたいダイジェスト版とかです。丸屋おけ八??・・ペンネームだよな・・・冗談みたいな名前だが・・・