2018年5月21日月曜日

1940 駈込み訴え 太宰治

 1940年の作品を並べて扱おうと思ってたのですがこれだけは抜き出して描きます。ワタシはこの作品が太宰の代表作だと思うので。

 内容はユダ、がどうしてイエスを裏切ったのか?というのをユダに、人間としての感情をもたせて描くというものです。

 この作品、ユダが実はイエスのことを一番愛していた、というのと、ユダの憎しみ、というのが交互に、わざと読者を騙すようにとっかえひっかえと表れるのですが、そのどちらもが、真心の篭った真実であるっていうテイストで書かれています。

 でもこの書き方こそが、本当のココロのリアリティだと思うのですよね、殺したいほど憎い、っていうのと、その人が生きてく理由であるっていうくらいの愛情みたいなのは、表裏一体、同じものだったりします。ふとしたきっかけでそれがどちらかに出る、ユダは一番イエスのことを思っていて、イエスが死にたがっていて、その願いを唯一叶えてあげた、優しさ、を持った人間だったともいえるし、ユダが一番イエスのことを妬んでいて、最初の最初からイエスのことが許せないと思っていたのも事実だと思います。


 実際のユダ、とイエスがどうだったかという歴史的事実は良いとして、すべてがヨハネの作り話だということもありえますので。
 でもイエスの神話という物語を考えた時に、イエスとユダは表裏一体、ユダが憎まれることで、イエスが愛されるという、ユダがいないと完成しない構造になっているのですよね。

 ユダは生きることを愛していて、イエスはセカイを憎んでいるとも言えます、生への執着、死の肯定、肉体と精神・・・真逆の2つだけど、両方が両方の存在を支えてるという関係。

 イエス的な人物が出てくる物語はそれほど死ぬほどありますけれど、この小説のユダとイエスがどんな物語の人物像よりも、一番リアリティがあって、しかも宗教的な関係性だと思いますね。