2018年6月20日水曜日

1941 年の 太宰治 みみずく通信 千代女 令嬢アユ 服装について 清貧譚  東京八景  誰 風の便り 新ハムレット

みみずく通信

ミミズクとフクロウには違いはない由 ズク、がフクロウの意なり

千代女
 物書きとしての女性の心情を語る作品也、女性が社会に出たのは、まさにこの戦時下に勤労奉仕をしたことが発端也

令嬢アユ
 月の一にしか休みの無い、娼婦との恋を描いた短編也

服装について

 どんな服を来ているかというエッセイ、戦前の服装について我甚だ無知也

清貧譚
 聊齋志異の短編を本歌取りした物語也 詳細を語らず

 
 東京八景

 本文中にあるように、この時期の力作として挑もうとして書かれた作品、わざわざ地方の旅館に籠もって書かれた作品。太宰の20才からの軌跡がダイジェスト版のように綺麗に整理、披瀝されております。
 これは一体どういうこと??っていうのをすべて太宰自身がこういうことだ、というネタ明かしみたいなことをしてくれております、作家となった理由、どういう顛末でジャンキーになったのとか、脳病院に収監されたわけ、実家と義絶になった顛末などなど、なるほどねーと首肯させられることばかりです。伝記作家の助けを得ないで、ここまであけすけな自伝をするヒトはないものです。自伝が文学作品にそのままなるというのも稀有な存在ですが。まぁその自伝のすごいこと。
 こんなダメ人間は他にいない、と舌を巻いてしまいます。人殺しをしてない以外はほぼあらゆる悪徳に手を出しているとして間違い無い。(心中未遂で恋人だけ死なせてはいますけれど、それは殺人にはならないはず?)人殺しは、場合によっては英雄となりうるわけで、人殺し=人でなしではありません。大量殺人者である偉人などは枚挙に暇がない。が、借銭やら女漁、薬物中毒、で名を残しているのはいわゆる退廃文学者、ディケイダンスの作家だけですね。戦後ならロックスターみたいな生き様です。
 ディケイダンス作家の中でも突出してます、オスカー・ワイルド、バイロン、みたいに衆道で警察に捕まってはいませんけど・・・
 ディケイダンスっていうのは、実践されたロマン主義ともいえます、実際のリアルなセカイでロマン主義的な行動を起こすと、必ず、社会から排斥される。太宰は最後のロマン主義作家とも言えると思います。太宰自身が自分は無頼派でもディケイダンスでも無いと言ってます通り、確かに作品の、描き方?はディケイダンスのそれではない。むしろアンチディケイダンスで、こういうのは、良くない、と書いているのです。
 ニーチェと同じですね、ニーチェは「ニヒリズム」は良くない、と書いているのに、なぜかニーチェをニヒリストだと思っているヒトが多くいます。

 この小説、最後は妹の夫の出征を見送る場面で終わるのですが、ワタシは今まで、そうは言っても出征するやつは偉いと思っていました、それに比べて、現代の日本人は徴兵などには大反対で、腐ってしまった、みたいなことを短絡的に思っていたのですが、ほんとはそうじゃないのではないかと最近気づきました。
 たぶん今の日本人だって、いざという時になれば、そういう状態に陥れば、そうはあっても、仕方あるまい、と腹をくくって、誰かのために戦うことができるのかもしれない。今まで醜悪で、自己中だった人間も、輝き出すのかもしれない、ただチャンスが与えられなかっただけで、美しい人間を、自分の中に見つけうるのかもしれないと思っています。戦争の時代にだけ素晴らしい人間がいた、というのはどうも信じられないことですから。あるきっかけでくだらなかった日々が宝石に変わる・・・ってこれなんの歌だっけ?


 

 サタンについての物語。サタンは一神教であったユダヤ人が、ペルシャのゾロアスター教の二神論に影響されて、ユダヤ教におけるアーリマンとして形成されたものだという由。

 風の便り

 2人の作家の手紙のやりとりという書簡形式をとった作品。太宰の文芸論、みたいなのが覗いていて、異色な作品。おそらく現実に元ネタがある作品ですが、なかなか謎解きみたいなミステリアスな感じになっています。アンビバレントっていうのですか。どっちにも取れる、というパターン。


 新ハムレット

 太宰としては大作の部類ですが、タイトルにある通り、ハムレットを改作するという趣向のため、長さは決まってるわけです。
 ただしプロットは本家ハムレットとは全然異なります。こういう形式をなんというのか、対立形式というのか、一方が意見をずらずらっと言って、それをもう一方がずらずらっと反駁する、しかし両方とも本心を隠していて、全員は騙し合いをしている。という形態となっています、本家のハムレットとは全く様子が違います。
 しかし何か元ネタを使ったものをやろうと思って、ハムレットを選ぶというところが太宰らしいというかって感じですね。ハムレットなんて、完成された上での完成品、もはや手のつけようのない名作です、普通そこは避けます、だってオリジナルを超えられる気が全くしませんもの。第九とかカラマーゾフ、のアレンジをやろうと思うようなもの。いや、絶対オリジナルが最高到達点に達している・・と思ってしまうものです。
 本家ハムレットとの一番の違いはハムレットが完璧な人間じゃないってところですね、オリジナルのハムレットは、たぶんシェイクスピアが、めちゃくちゃかっこいい主人公を描いてやろうっていう企画をもとに作っていると思います、シェイクスピアの創作法ってたぶんそうだとワタシは思っていて、ハッキリとテーマ、が決まっているのです。最悪の状況に追い込まれた、最高に高潔な人間を描こう、悪逆の限りを尽くす、冷血なアンチヒーローを描こう、これが最高の死に方というのはなんだろう、みたいな。
 新ハムレットではハムレットは、まったくかっこよくないです、嘘ばっかり言うし、浅はかだし、人間的な欲求にも弱い、芯がなくふらふらしている。オフィーリアもまた、なかなかのあばずれで、自己肯定ばかりしています。
 概念が化体して歩いているというスタイルの本家のキャラクターに、現実としての肉をもたせたような感じですね。