2012年7月12日木曜日

續姿三四郎 1945

  いきなり全然関係ない話から始めると、社会から受け入れられないとすぐ即死になります、現代映画だと、蛍の光がまさにそう。他にも失業したらすぐに自殺みたいな設定が多い。けれど昔には山伏、野伏、など、社会に属さない人間がいた、そしてどうやら生き延びていた。絶対にそっちのほうが正しいはず、だって社会から疎外されたら即死なのであれば、原始人は全滅してるはずだから。どうして現代映画は文明外の人間を存在しないものとみなすのだろう、文明の自己肯定プロパガンタなのか?
 
 
 映画に関して。
良いです、カットの切り方、つなぎ方が結構攻めています、私が見たのだけかもしれないけれど、音がかなりブチブチいってて、フィルムの傷もつきまくってたのが、逆にそれもいい味になっています。けれど最近思うのは、考えるべきはなんで初期黒澤映画がいいのかじゃなくて、なんで今の映画はダメなのかだろうと思います。商業主義だうんぬんとかのレベルじゃないんですよね、そういう構造的な問題以前に、なんでかわからないが、どうやっても、ペラペラで薄っぺらいものになってしまうんです、どんなストーリーを描いていても。ボクが思うに、やっぱりカラーフィルムでしょうね、現実に近いものが取れたほうがいいはずだ、と思って現実復元性を重視して映像ってのは進化してきたけれど、あるいはそれは的外れも甚だしかったのかもしれない・・・・、あの普通のオフィスやら、モデルルームみたいな部屋が映像に入ってくるとまぁ興ざめしますね、酷い。そして黒澤映画に出てくるボロッボロの家が出てくるとまぁ安心します、これだよ!って。
 カラーを使いこなせた映画はまだ本当は無いのかもしれないという気がします、タルコフスキーのストーカー・・・、でも彩度を全部押さえてあのタルコフスキータッチですけれど・・・でもカラーである必要性はあんまりないような気もする。持て余してる。後期黒澤映画もまったくひどい。
 
 もうやりつくされてしまったから面白く無いんだは嘘だと思います、だって黒澤映画だってストーリー的にはまぁこすられたものだし、古典から題材を取ってるんだもの・・・



 アニメーションや漫画の構図の撮り方になれてくると、実写というのはなんて空間的自由がないんだろうとおもいます、俯瞰を撮るのが非常に難しいし、実写というやつは、イラストみたいな、ハイコントラストや色調で見せるってことは出来ない、画の作りこみも限界だらけ、やっぱアニメーションのほうが表現としては自由度が高い、そりゃ予算と才能、時間が無限になればの話だけれどね。実写は実は漫画に近い、漫画も全部イラストクオリティの奥行き、ビジュアル的完成度では書けない(単純に実践的制約のため)、絵で見せる系の漫画ははっきり言ってつまんないからです。それは映像でやったほうがいい、だって音楽が使えるんだもの。だからもっとストーリー、構図、カットの見せ方、そういうアイデア勝負なとこがある。そしてアイデアだけで勝負出来ることほどみんなが参加出来て面白いことはない。
 

 ラストシーン近く、三兄弟の末っ子(これは引きこもり系のヤバイやつなんですが、この時代の映画で初めて出たんじゃないでしょうか、こういう陰性のヤバイやつは、欧米映画ってのはこういう裏に入ったやべぇやつってのは絶対に出てこない、いないんでしょうね、単純に。向こうだともっとカラッとした殺人鬼になってしまう、チェーンソーで切断したり、ミンチにしてコロッケにしちゃったり、それはただの危ないやつですよね、ホラーです。なんかホラーの悪い奴は精神的苦悩がかけらもない。ひっきー系のやべぇ奴はそれがすごい、人を殺しながら泣いてしまうような奴、まじで苦しんでしまうやつ・・・アラビアのローレンスがそれに近い・・・)、が刃物をもって姿を殺そうとするシーンのカメラのパンの切り方、これは漫画では絶対に出来ないムービングショット、アニメーションをやってる人はこういうカメラの使いかたをもっと勉強しなければ・・・・、黒澤の映画のムービングショットは浮遊感があってすごく気持ちいい、カメラマンが足腰強いんだろうなw
 キューブリックみたいなステカムはなんかあざとい感じがして逆に肩が凝る。しょっている。