リンクを張ろうとしたけど、なんと現在廃刊です。
黒澤明のデビュー作はこの姿三四郎でして、それによって知ってる人が多いのではないでしょうか(いや、全然いないか)。
まず驚いたのはこの富田常雄ってのの親父が講道館柔道の旗揚げをした、講道館の富田なんですね、マジなんじゃんか。講道館の幹部の息子が三四郎という物語を作るなんてなんか普通は避けたくなるようなテーマですけどね。
三四郎のモデルは西郷四郎というのは後からついた伝説であって、作者はそういうつもりではなかったようです、小柄で得意技は山嵐、っていうとこぐらいしかあてはまってませんし、柔道で物語を作るなら、柔よく剛を制すでして、小柄な人物を主人公にすえなきゃいけないってのは、どんなバカな作家でもわかることです
三四郎という名前自体は、漱石の三四郎から来ていて、そもそも三四郎という名前は、23、24くらいの大学卒の浪人、のような人物という、ことで、つまり浪人だ、ってことです。今ではNEETとかクズとかホームレスとか言われてますけど、浪人、という良いコトバがずっと昔からあるのです、今だと大学受験の失敗者のことを浪人と呼ぶ節があるけど、なんでもない人間、のことを浪人、と呼ぶのです。宮本武蔵は素浪人と言ってますが、素浪人とは素寒貧の浪人のことで、一文無しだってことです。浪人はもちろん悪口ですけど、逆にそれがかっこいいのも事実。浪人は武道を鍛えるといいのかもしれませんね、それでヤンキーどもを逆に片輪にしてやるっていう。
山嵐ってのがどういう技なのか調べてみましたけれど全然意味がわかりませんでしたね、ともかく大外刈と背負投を組み合わせたみたいな技のようです、昔から西郷四郎だけにしか使えない技だけだったみたいなので意味がわからんのも当然かもしれません、つまるとこ、足を払われながら投げられるので受け身を取れないっていうか投げ捨てでポイっ!って投げちゃうので、絶対に投げられたほうは怪我をするわけです。現在のスポーツ柔道は全然武道からかけ離れたポイントを稼ぐスポーツなんですけど、昔の柔道は武道ですんで、受け身を取らせてあげなくてもいい投げ捨てでいいのですね、じゃなかったら別に投げられたところで怪我はしないもの。三四郎はまるでジョーみたいに山嵐をかけた相手を全部死においやるわけですが、それは三四郎が山嵐を使うからです。パイルドライバーをかけるみたいなものですね、あれはマジでかけたら死ぬ技ですから。
この作品はガチの戦争下でかかれた作品でして、検閲逃れとして右派的なことを言ってるのか、それともほんとに日本の武道と民族の高揚ってのが作者の本音なのかよくわからないとこがあります。戦争下でどういう作品を書くのか、で三四郎は 「死ぬことだ」 っていう、なんだろう、覚悟を与えてあげるような作品です。滅私、して空となれ、っていう空の境地に至れっていうのは、これから死ににいく若者に対して慰めでも、言い訳でもない、勇気を与えるものです、そういう優しさなんですよね。死んじゃだめだ、っていうのだけが優しさじゃない、この状況で、死を避けられないって時に、死すらも自我、空を得よ。というのは勇気になる。
和、の思想というのが作中で展開されてますが、これが三四郎の核となる思想なんです。つまるところ和の思想とは闘争の正当化理論です。
和 について (闘争の肯定の理論)
要旨
「闘争も敵対も1つの結び合う仕方である。仏教では敵や損ない合う者同士を無縁のものとはせず、縁が深いとする。それは逆縁であり
和の裏である。昨今の平和論は機械的に、静止的平和のみを平和という。しかし平和とは闘争を通しての平和しかない。新しい統一の
中にだけ新しい平和がある。闘争とは新しい平和への道筋であり、闘争とは古い、誤った統一の崩壊である。
順と逆、裏と表なくして和はない、その逆を順へと受け、逆縁を和とするのが、和の働きである・・・」
これはすげーいいことを言ってますね。そして戦時下という緊急事態でも、その体を守っていける強い思想だと思う。
吉川英治の宮本武蔵と並んで三四郎は、戦争に行く若者のバイブルとしてみんな読んでいたものです。そして今みたいに闘争が避けられないってときにはやっぱりまたみんなのバイブルになるんじゃなかろうかと思いますね(武蔵はVAGABONDとしてマンガ化されてますしね)。ともかく若者よカラダを鍛えておけって、60年代安保みたいなことを言っておきますw
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まとめ
・文明開化とは贅沢への覚醒に他ならなかった。(西洋を礼賛する)その結論は日本人はつまり野蛮人であるということである
・すぎたことは過ぎたことです。これからは生きた者で最善の道を行くより他ありません
・人間の道を知るなら、その道を直ちに行うことが出来なければならない。行うことが出来ないならばそれは知っていることにはならない