2014年8月16日土曜日
ジブリ絵コンテ全集19 風立ちぬ
Iはこの絵コンテ全集ってのは好きで、これが一番アニメ、の本質的なとこを捉えてるって感じがするのですね。絵コンテを見て、あぁそーゆー意味だったんか!ってわかることも多いですし。Iが思うにアニメは絵コンテが100%です、あとはそこから減点方式でしてそれ以上になることは無い。音楽がはまってよくなると200%になるって感じ。
冒頭二郎が夢から覚めて、庭先をキッと睨むとこがありますね、あれは、夢では視力が回復していたので、現実でも視力が回復してないものか、っていう願いがこめられていたわけです。つまり二郎は飛行士になりたかったんであって、いきなり設計技師になろうと思ってたわけではない、当然ですけど。誰でも一度はみんな飛行士になりたいものです。
二郎はすでに挫折してるわけです、小学生で、目が悪いってことは、絶対に飛行機乗りにはなれない、これは今でも鉄の掟。二郎にビミョーなアンニュイな感じがあるのはそういうわけじゃったのです。
夢を諦めるな、決して諦めない、みたいなことをNHKとか少年漫画はいいますけれど、乗り越えられないカベなんてそりゃもう腐るほどある、それをちゃんと見つめる勇気のほうが、大事ですね。
でも映画のあの一瞬の動きではそこまでわかんねぇですw
特に気付かされるのは泣きたくなるほど確かに筆圧が下がってて、線がものすげー弱いってことですね、ナウシカの頃とは比べ物にならないくらい、ナウシカの線にはもっと力線があった。二郎の輪郭線の柔らかいこと・・・。
そりゃ引退せざるをえんね、っていうよりは、鉛筆やめたら?ってことも思うんですけど。6Bにしようがなにしようが、鉛筆の濃さってのは芯がやわらかいだけで、別に力をいれないで線が濃くなるわけじゃないですから。鉛筆濃くしたって筆圧は必要なんです。
たまたま見たドキュメンタリーでは吾郎さんは絵コンテを完全デジタルで描いてましたね、あれ何のソフトなんであろう?めっちゃ使いやすそう・・・自社制作ソフトでしょうかね。CINTIQで描いてましたが、あれなら筆圧関係ないし・・・けど駿氏がラップトップで絵コンテ切ってるのもちょっと考えられないですけどねw
ともかく筆圧弱くても線を濃くする方法はメカペンとか使えば簡単に出来そうだけど・・・まぁ刀を握れなくなったら終わりっていうふうに、鉛筆握れなくなったらお終いだ、っていうプライドであるのでしょうね、刀が重くなったら拳銃で戦えばいいじゃんってわけにはいかないのですよね。
あと映画の色彩、特に背景の色彩設計がいままでのジブリっぽくない、なんていうんでしょう、コントラストが高い、ありのままの風景の色っていうよりは、夕焼けとかが強調されてる感じがするってのに気づいた方もいらっしゃる、それはイサーク・レヴィタンっていうロシアの画家に駿氏がちょっとハマっていたために、レヴィタン風にしてね、っていう指示を出してたのですね。レヴィタンなんてほとんど一般には馴染みがないでしょうけど、ロシアの移動派(ペレドビジュニック)の若手です、移動派っていうとI的には写実主義+ナロードニキっていうやつです。民主主義的写実主義、みたいなこと。社会主義的リアリズムの前身みたいなものですね。
描き込み重視の自然描写が持ち味でして、レーピンとかが有名ですよね。いや、まったく有名じゃないか・・・ロシア美術が紹介されないのは単純に大学の美術コースが、英語、ドイツ語、フランス語、イタリー語っていう旧西ローマ帝国だけに的をしぼって東ローマ地域の美術コースが極端に少ないからです、それだけです。だからロシアの絵というと、パリに出てきたロシア人、カンディンスキーとかシャガール、くらいしか一般に知られない。絵画っていうのはものすごい限られたオーディエンスしか持ってないってことなんですね、だから極端な部分しか紹介されない、西洋美術史といいつつ、とりあげてるのは90%がルネサンスと印象派だけです。
CUT666~ からのシューベルトのくだりがありますが、ここのブログさんが非常に詳しく解説してくれております。
http://blogs.yahoo.co.jp/c56_iiyama/15686179.html
そうIも思ったんだけど、冬の旅?じゃなくね?っていう、たぶんsternでは知名度がひくすぎてやめたのか・・・冬の旅、で彼らが冬に旅をしてるから、ってのはあまりにも安易ですよねー。 本庄っていうキャラは、これまでジブリでは一度も登場しなかったキャラですよね。全然女の子にやさしくないオトコっていうw たいして好きでもない(というかほとんど会ったこともない)女と結婚出来るし。ともかく冬の旅、では本庄の、おれたちにぴったりだな、はよくわかんないことになります・・・。
駿氏はポニョでワーグナーを使ってたみたいに、ドイツびいきですね、死の翼アルバトロスでも、質の良い手榴弾はドイツ製、またこの映画ではツァラトゥストラの引用もあって、インテリ向けです、ガキにはわかったかな?こういう視聴者を無視してインテリネタを使えるのはマスメディア系の作家では他にいませんね、普通は担当社がバツを出します、ダメ、わからないって。駿氏の弟子、庵野氏もやっぱドイツびいきでして、アスカはドイツ人、音楽はベートーヴェン、カヲルが弾くピアノもドイツ音楽ってわけです。
旧AXIS、 (Iこの枢軸国 AXIS、っていう名前が好きです)
旧AXISの絆はどっかでつながってますよね。とことんまで話しを詰めると結局理解し合えるのはドイツ人だって気がする、イギリス人みたいなドライな拝金主義とかユーモアのセンスってのはまったく日本人にそぐわないし、フランス、イタリアのラテン気質もまたく合わない、無口で愛想が悪くオタク気質でロリコンのド変態というゲルマンとはやっぱ通じるものがあります。ほとんどがキチガイみたいな阿呆で一握りの超天才というスペインは一番遠い。
他にも超マニアックな引用があります
魔の山 トーマス・マン (これは読んでて当然、といいつつまぁ客の0.5%)
会議は踊る (戦前のドイツの白黒映画、知るかんなもの)
三四郎 (映画 マイナー・・・)
戦闘機の映画なんてヤバンね!という人にちょっとちゃんと説明してみましょう。戦闘機に限らず、どうせ作るなら極限までいいもの、最高のものを作りたいというのは、極めて普通、の願いです、飛行機乗りも、最高の、飛行機乗りの技術を手にしたいと願うのは。空を飛んできれいだねー、で満足出来るなら、気球でもいいし、高台に登るだけだっていい、飛行技術なんてのも安全だけを重視して単純作業をすればいいだけ。でもそんなの嫌だ、単純労働というのは奴隷よりも悪い。
その極限まで突き詰めていくにはどうするか、最高ってのを証明するにはどうするか、そりゃ真剣勝負の他にありませんね。竹刀じゃなくて真剣で斬り合うしかありません。そうしないと何も見えてこない、素振りだけで満足出来るならそもそも刀なんて持つべきじゃないし、斬れない刀を作っても意味が無い、第一斬れない刀なんて美しくない。
戦闘機で格闘をしたことが無い人間には、それを批判する権利がない、真剣で立ち会ったことが無い人間にはそれを語る権利がない。経験、がなければ、それについて意見をいうことは出来ない。だってそれがどういうものか、知らないのだもの、その人間の気持ちなんてわかりっこないのだもの。Iは勘だけでしゃべるやつの言うことは絶対に信用しません、経験からしゃべる以外のコトバはただのノイズです。
CUT800くらいの軽井沢パートあたりから恋愛映画に変わっていくっていう一本の中に二本のストーリーを入れるっていうタイタニック形式になってるわけなんです、まぁ確かに飛行機だけではただのマニア向けになってしまうから当然そうすべきなんですけど・・・・、さぁしかし・・・はっきりいうとこの流れはベタ中のベタの中でも超ベタなメロドラマなんですが、同時に落ちる、ブルーな展開でもあります・・・
Iはでもやっぱり奈緒子さんが、1人で山に帰っていっちゃうみたいな時代劇的かっこつけみたいなオチのつけかたは絶対納得いかない。奈緒子さんは完璧な人間すぎるもの、それじゃあ・・・そんな完璧な人間ありっこないです・・・・
後の小冊子に半藤一利という人が文を載せてますがいいこといいますね
要旨は
今の現代のような 明日に、光明を見いだせない、行き止まりのような世界に生きていても、物事をきちんと考え、真面目に自分のなすべきことを考えて、うんうん唸ってやりながら、君たちは、人間であることを決してやめないで生きろ・・・
がこの映画のメッセージであると思う。
まったくその通りですね。