2016年12月26日月曜日

1868  月長石 ウィルキー・コリンズ

  イギリス初の本格的な推理小説と言われる小説なんですが、いろんな意味でかなりファンキーな作品ですw

 まず見ただけでその威力がわかりますけども、ものすごく長いんです、普通の推理小説三冊分くらいの分量があって、文庫本でこんなにデカい本は目録か、聖書くらいなもんです。

 どんなものすごい複雑な事件が起こるか?と思いきや、実は推理、に当たる部分は非常にわずかでして、また事件自体もすごく小さな事件なのですが、この小説の体裁、がものすごい特殊なんです、古い小説、ってのは奇抜なスタイルを持ってるものが多いですがこの本は相当奇抜です。

 この小説は、古い物語、の部分をまだまだ残してるのですね。物語ってのは、これは聞いた話だけれども・・・、っていう前提で、誰かから聞いた話を語るという形式です。物語、っていうものが最初っから存在していて、それを又聞きしたっていうかんじ。
 一人称小説っていうのもあります、これは事件を目撃した本人、がお話をするという形式。
 そして三人称小説ってのがあります。
花子は1人部屋でぼんやりとしていた・・・。みたいな、つまりはカミサマ視点って呼ばれるヤツです。
 物語とカミサマ視点は、実質的には同じなのですが、物語は、それでも、この物語がワタシが作ったものではなくて、誰かから聞かされたものである。っていう前置きが存在するわけです。

 三人称小説っていうのは、実はこの話はフィクションである、って言ってるのと同じです。でも、この話がフィクションである、っていうのは、物語としてはいきなり崩壊してるのと同じですね。嘘かい!っていう。いつからか、作品は嘘、であるってことが当たり前になってますけど、それって、よーーく考えれば、面白くないですよね。聖書の最初にこれはフィクションです。って書いてあったら、これはえらいことです。神話や物語でも、最初にこの話しは嘘っぱちですって言い始めたら、唖然とします。嘘はいいからほんとの話しを教えてよってなりますもの。
 ドストエフスキーの小説は、実は語り手が存在していて、どう考えてもその語りてが目撃出来るはずがない話しがありつつも、語り手の一人称っていう構造は貫いています。そうしないと、嘘ってことになってしまうから。

 この月長石という本も、嘘ではない、作り物ではない、というのを保つために一人称視点で書かれているのですが、すべての事件を目撃する1人の人間が存在しないので、複数の人間の回顧録の寄せ集めで事件の全貌を記録する、っていう恐ろしく面倒な方法がとられているのです、のみならず!!この小説は実験的でして、その一人称の語りてがことごとくバカなんです。これが恐ろしいところで、事件について語っているヒトが、見当ハズレで偏見に満ちて混乱しまくっている、読者はバカがべらべらしゃべりまくってる情報を取捨選択して、事件を学ばないといけない、という小説なんですね。
 語り手が犯人、っていう裏技的な手法ともいえます。悪意は無いんですけど何を言ってるのかわかんないし、ほんとに無駄話がえんえんと続く、無駄話を続けさせるというネタ、のためにこんな長編になっているんです。プルーストの失われた・・・、も膨大な量のくだらない話をえんえんに続く、実は!すべてまったく意味のないコトを全く意味もなくことさら精緻に描く、という、メタなネタなんですね。
 面白くない、という裏技、あえて全然面白くない、というオチなのです。人生はほんとは全然面白くない、というのをあえてそうとは絶対言わないことで強く示すっていう方法なんです。


  ウィルキー・コリンズはディケンズのトモダチで、当時はかなりの有名人だったのですが、今ではディケンズというと小説の父、的なポジションにいるのに較べてコリンズはほぼ知られてないですね。、推理小説の歴史、として存在するだけで世界文学全集的なものには殆ど採用されない。コリンズの本はエンタメ作品の匂いが強いってことですね、エンタメというか当時のオーディエンスに合わせて作られてるってことです。村上春樹タイプってことです、同時代人にはウケるけども、作品の完成度としてはイマイチ。
 この本は構成としてどう考えても冗長で長すぎるっていう決定的な弱点がありますので・・・。