2021年11月26日金曜日

-92 史記 司馬遷 本紀

  誰でも知ってますが、読んだことがある人はほぼいないの本。作家っいうのはこういう誰も読まない本、を読むのが仕事だったりします。


 長大な本でして、いくつものカテゴリに分かれていて、本紀、はいわゆるダイジェスト、大まかな歴史の流れを追っていて、天地創造から、当時の現在の皇帝である、孝武帝までを記録しています。

 司馬遷の書いた孝武帝の記録は孝武帝がブチギレて削除されたようで、残されたのは偽書?誰が読んでもそれまでの文体とは全く異なるオカルト話が残されとります。


 司馬遷は孝武帝の怒りを買って、宮刑、つまり去勢されました。その憎悪?が司馬遷にこの史記を書かせたと言われとります。ふむ。つまり永続賢者モードに入ったってことですね。

 


 史記は基本敵には、王朝の最後に悪王が現れて、それを諌める健気な部下がいるんですが、聞き入れられずにぶった斬られて、やっぱり滅んで次の王朝が来るっていうのの繰り返しです。これが物語なら、健気な部下に何か良いことがあるっていうフォローがありますが、歴史ですから、無残に殺されてそこで終わりです。



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 厲王(-828?)の密告制度 情報統制

 周の厲王は悪王であり、自分の悪口をいう人間を、巫女を使ったスパイ網を張り巡らせて、密告させて処刑した、そして民衆は何も言わなくなった。

 召公はそれを諌めて、民衆の口を塞ぐことは水をせき止めるのと同じで、いつか氾濫を起こす、民を自由に語らしめ、その批判のなかで正当なものを取捨選択するのが王道だと言ったが、聞き入れられず、三年後厲王は民衆の反乱で追放された。

 

 およそ2900年前からやってることは何も変わらないという話


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 社会の規範として何を置くべきか

夏王朝は、忠、まごころを第一とした。

まごころを第一とすると小人は、他人に甘えるようになり失敗した

殷王朝は恭敬、を第一とした

恭敬を第一とすると小人は邪教に走るようになった

周王朝は、文、理知を第一とした

文を第一とすると、小人は上っ面だけを取り繕うようになり、真心を失った

 秦は周よりさらに、法、という理知を中心に据えることにより、更に厳しくなったので、すぐに滅びた。

 漢は文を尊重しすぎた弊害を治すためにまた、忠、まごころを中心とした。この忠、恭敬、文、は循環するものである。



  上古

天帝 上帝  いわゆる神様のこと、天を治める帝


三皇  中国最初期の偉大な天皇  龐羲、神農、女媧 もしくは伏義、神農、黄帝、または 天皇 地皇 人皇

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 五帝

伏義 姓は風 五行では木人  民衆が、伏して拝んだことから、伏義、という名   八卦、五行、牧畜、文字、婚姻制度などを作ったらしい 

半分蛇である半人半蛇だったともらしい


女媧 姓は風  木人    共工なる人物(水人)が、洪水を起こして、天を支える山をぶっ壊したのを直して破滅を救ったとされる  

これも半人半蛇だったらしい


神農 姓は姜(きょう) 炎帝  農耕、音楽、を作った。ので神農、と呼ばれる  牛頭であったらしい。


黄帝 姓は公孫 土人   炎帝、蚩尤(シユウ 特に強かった武将、後に悪神とされる)、を破って神農一族に変わって新しく帝となる。 

(初めて普通の人間が皇帝になった?)


堯帝  有名な名君 暦を作ったとされる  帝位を血族ではなく、徳の高い一般人であった舜へとゆずった


舜帝  有名な名君 庶民の出であり、家族は揃って舜を殺そうとするクズだったが、舜は孝行を尽くした。帝になることも辞退したが、民衆が舜の言うことしか効かないので

天命として帝位につく。刑罰を軽くして、仕方なく罪を犯したものを無罪とした。血族ではなくて有能な家臣である禹に位を譲る

 真、善、美を全て備えた名君のアイドル


禹帝 舜より帝位をついだ帝  夏王朝  地図、インフラと税収の整備をした



桀帝   夏王朝の最後  元祖悪王として、末喜という美女に溺れ 湯王に討たれる

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紂帝  殷の最後の帝  伝説的な悪帝 であり妲己を偏愛する。 暗愚ではなくてうまれながらの天才であったらしい。 酒池肉林の創始者。

気に食わないやつを一本橋渡り火炙りにしたり、塩辛にしてみたり、心臓だけくり抜いたりと、ユーモアも備えた徹底的悪玉。最後は宝玉などを自分に巻きつけて焼身自殺した。

 もちろん、そこまで悪王だというのは言い過ぎで、紂を倒した武王による正当化だと言われている。


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周 紀元前1046年頃 - 紀元前256年

武王  紂帝を倒して 周王朝を作った偉人。太公望を師匠とし、周公旦を補佐とする帝、という位を偉すぎるものとして、「王」という位にする。だから武帝でなく武王。


褒姒(ほうじ) 笑わない姫様のおそらく元祖 周の幽王に溺愛され、幽王は褒姒を笑わせるためにいろいろな無駄遣いをして政治を誤る


 周王朝はだんだんと衰微していき、諸侯がそれぞれ王と称する春秋戦国時代になる、戦乱時代がおよそ550年も続く、やばすぎだろ。

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春秋 (-771~-403?)


戦国(-403~-221)


昭襄王  秦が統一を成し遂げる礎を築いた 始皇帝の曽祖父

猛将白起などを用いて、常に戦争状態、西周を滅ぼして九鼎を秦に治める。

その方針は殲滅戦方式で、とにかくめちゃくちゃに斬首して殺しまくるスタイル。

始皇帝の礎も作ったが秦が恨まれる原因も作った。現代中国で人気が高いっぽい、たくさんドラマ化されている。


白起  昭襄王の時代に素晴らしい軍功を立てた将軍、楚を破り、40万人を生き埋めにしたとも・・・。しかし、あまりにも勝ちすぎたのか、最終的には処刑されることに。秦は薄情忘恩である、というイメージもつけることになった。


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秦(-221年~-206年)

始皇帝(-259~-210) 名は政  始皇帝が中国を統一したというよりも、始皇帝の時代にはすでに秦は戦国各国の中で最強で、あとはどうやって天下統一をするかという時期。

昭襄王譲りのとにかく厳罰、殲滅、侵略主義、裏切り者などには三族に渡って根絶やし、車裂き、生き埋めなど冷酷無比。クールでドライなタイプのリーダー、必要な時には頭も下げるプライドよりも実利主義のリーダー、経営者としては一番適している性格。

法、韓非子、を尊び、感情を抜きにした、「法治主義」を敷いた。

また諸侯として血族を統治者とするとまた戦国の繰り返しになるので、「郡県制」を敷いて絶対君主となった。

度量衡、文字の統一「小篆」、街道などのインフラ整備をし、大陸中を歩き回ってその途中で病に倒れて死す。

 五帝よりも優れたものだということで「皇帝」と名乗り、皇帝の一人称は「朕」とした。「皇」とはつまり「神」だということ。また法令は「制」命令は「詔」となった。

 焚書坑儒  李斯の意見により、秦が正しいとしていないものはすべて焼き捨てさせ、それまでの思想の類なども全て燃やし、それに従わない人々も死刑とした。始皇帝を一躍悪王というイメージにした政策。李斯の言い分は以下。

 晩年は不老不死の「真人」になるというオカルトにドハマリし、バカでかい宮殿を作ってみたり、スパイがいるとして宮廷の人々や学者を皆殺しにしてみたりと、完全なワンマン社長になっていく、全て始皇のイエスマンとなり、もちろん後継者など育たない。

 始皇帝は占いで旅が吉と出たので、また旅行を開始して旅先で病で死んだ、50才。始皇帝は「死」というものを嫌った。

始皇帝の死後、すぐに各地で反乱が起こり、秦はわずかその4年後に滅ぶ。


・王翦  始皇帝の時代の指揮官 老いを理由に引退してもまた担がれるほどの名将の様子。無敗。


・李斯 始皇帝の参謀 荀子に学ぶ。中央集権制度の生みの親。焚書坑儒を促した人で、自分の地位を脅かすかもしれないと思われた韓非子を毒殺したとも。

 学者どもは必ず「昔は良かった」と文句を言うことしかしない。どんなことをしても文句を言うのだけが仕事である、だから昔の歴史を全て抹消して、「昔は良かった」と言わせないようにし、学者どもを全員ぶち殺す。という非常に明快な論理。つまりこれまでの歴史を抹消しようとした。言論弾圧、情報統制の最高峰。

 始皇帝の死後、胡亥を皇帝へ祭り上げ実権を握ろうと画策したが、結果として処刑されるという無残な結末。つまりは全ての人間は国家の為と言いながら、自分の権力のことしか考えない、まさに中央集権制的人物、しかしこの人が中央集権制という制度を考えだし、度量衡の統一や言語の統一も推し進めたので、単なる悪人とは言えない。権力を欲するのも、全て自分が決めることで、国家をうまく運営したいという善意から出ているとも言える。


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・項羽 -232~-202

 秦を滅ぼす時に活躍して、一時権力者となった。完全なる脳筋パワータイプの猛将であり、気に食わないやつは味方でもぶち殺すスタイル。秦滅亡の動乱の時代にあってそのパワープレイが成功したといえる。

 ただ捕虜を穴埋めにしたり、敵を煮殺しにしたり、残虐行為も多く(残虐行為や殲滅を行うと、敵が絶対に投降しないで徹底抗戦をしてくるようになってしまう)漢王沛公(劉邦)をなんども追い詰めるも、だんだんと人が離れていって最後には敗れる。四面楚歌(敵が故郷の楚の歌を歌っていたので、もう味方が全部裏切ったと思ったという話、しかし劉邦も同郷の出身なのだが・・・?)、妻の虞を歌った詩など逸話も豊富。

 たった30才で死んでおる・・、良くも悪くもドラマティックで感情的な男。

戦えば無敵であり、項羽が来るというだけで敵は逃げてガチガチに守った。


 項羽が負けたことによって、残虐行為が強調されてることは間違いないので本当にそんな残酷な人間だったかはわからぬ。

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前漢 紀元前206年 - 8年


・劉邦 -256~-195

 漢の高祖。武力に優れたわけでも、知力に優れたわけでもない、連戦連勝でもなく大敗も多い、だが、素直で部下の言うことをちゃんと聞くというリーダー、そして何より幸運の持ち主。劉備に重なる。

 生まれは全然高くなく、下役人であったが、顔が龍のような龍顔であったとされ、酒と女が大好きでホラ吹きで金もなかったのだが、次々に彼を慕って人々が集まった。


 人が評価して曰く「項羽は情にもろく人を愛した、愛するが故に敵を殲滅した、劉邦は心底では全ての人間を軽蔑して下に見ていた、項羽は英雄であるが支配者にはならず、劉邦は英雄ではないが、支配するものは、冷厳であらねばならない、始皇帝もまさに劉邦と同じ、冷厳」


彼の死後、妻の呂后と諸将ですぐに権力争いとなった。そういう身内へのツメの甘さも劉邦らしさといえる。呂后は糞鬼畜悪女として有名。



・韓信  ???~196 劉邦の参謀 

 生まれはめちゃくちゃな貧乏で、最初項羽の軍へと入る。その後劉邦配下となって、戦をすれば連戦連勝の軍略家、三傑の一人となる。だが野望も大きく、みずから斉王となる。項羽を倒して漢王朝が成立すると、すぐに左遷されただの名誉職のような立場となる。その後謀反を計画するが失敗し、三族皆殺しとなる。

 頭がキレすぎる戦略家、というのはいつもこの道筋をたどる。


・呂后 -241~-180

 劉邦の妻。劉邦の死後に権力を握り、自分の呂氏ばかりを優遇したり、鬼畜行為を行ったり、劉邦の他の子供を殺しまくったりと、女性が権力を持つと必ず悪政を成す、という典型を作った伝説的悪女。

 もちろん、呂后が倒れた後にすぐ呂氏はすべて皆殺しされたので、ひどく改ざんされてるのでどこまでほんとかはわからぬ。

 呂后がこんなことになってしまったのは、劉邦がだんだんと他の后ばかりを愛するようになり、年をとった呂后をないがしろにした為であり、やはり劉邦に原因があるといえる。


 更に呂后はあまりにも血みどろの権力闘争をしたが、それは権力内部の権謀術数だけであって、天下自体は平和であったともいう


・(孝)文帝 -203~-157

 呂后を継いだ嘘みたいに有能な皇帝。連座処刑の廃止、言論統制の廃止(政治を悪く言うのは罪であったが、それだと誰も意見を言わなくなるから)、わけのわからん祈祷職の廃止、皇帝のための祈祷を廃止、肉体刑の廃止、宮中の奢侈娯楽の禁止、質朴を旨とする。皇帝の女官たちを故郷に返す。

 その遺言も、人が死ぬことは道であり、何ら悲しむことはない、葬儀と服喪は簡便とし、無駄な金を使うべからず。

 とあまりにも完全無欠な皇帝、聖人レベル。なのにあまり有名でないのは一体なぜ?あまりにも完璧すぎた支配者だったのか?

 だが、あまりにも寛大であったため、部下は増長し、匈奴に甘くみられて何度も来寇を受けることに。

 名君としてショーアップされてるとはいえ、名君だったことは疑いなし


・孝武帝 

 司馬遷に刑罰を与えたその人。孝武帝本紀、はその怒りを買って抹消されてしまい、残っているのは偽書。