2016年1月24日日曜日

1965 Pappan och havet ムーミンパパと海

Literally "The father and the sea"  つまり現代は、父と海、HAVET、というのが海。というわけです。


 ムーミン小説の7作目。これまでのムーミンとかなり毛色が変わって、内省的な調子です。ソラリスに近い感じですね。ムーミンパパは平和に耐え切れなくなって冒険を求めて家族で孤島に移り住むことに決める。家族はそれぞれバラバラに、島、海、が大きな生命だということを発見していく・・・って感じ。大きな無機物が知能を持っている、っていうソラリスの感じ。ソラリスの出版は1961年なので明らかにソラリスの影響がありますね。




 舞台はほとんど島の灯台とその周りだけ、というクローズサークル小説です。外界から切り離されてだんだん頭がおかしくなっていくという。ちょっと北欧の狂気が宿っている怖い本でもあります。もちろん終わりはファンタジーですから、それほど無残な鬱エンドとはなりません、安心して。でもキッズがこれを読んでも面白さがわかるには20年かかるんちゃいますかね・・・、まぁ小説のムーミンを手に取ろうっていう賢いキッズだったら10年で理解出来るのかもしれません。

 ムーミンは後半は純文学的になっていって、トーベが純文学へと向かっていったから・・、って一般論で言われております。

純文学って一体何!?ってことが問題になります。実際には区別は曖昧マイマイですね。何が純文学で、何がそうじゃないのか、ってのは。結局のところ、なんでもかんでも良い物はロックだ、っていうのと同じで、いい本は文学LITERATUREで、良くない本はそれ以外ってことなんですね。これはいい本だから純文学、この映画は良い映画だから純文学っぽい。みたいな感じ。
 

 普通の辞書には純文学とは、娯楽性よりも芸術性を重んじるもの、とある。なんじゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそりゃw

  
 カネをつけて売ってる時点でじゃあ純文学じゃねぇじゃん、純文学なんてものはどこにも売られていないで作家の引き出しに隠されてるものですわね。カネをもらって売ってる時点で、純粋に芸術、の為とは程遠いわけですから。あるいは西洋の修道院で無償で写経されてるような聖書やそういうたぐいのものが純文学、だっていえますね、普通の商業ルートで出版されてるものはすべて娯楽の商品、ですから。商品、と芸術、は異なるものなり・・・。


 まぁ純文学批判なんてどうでもいいですw ちなみに英語のLITERATURE、もラテン語のLITERA、から来ていますが、もともとは書かれたもの、であって純文学、高尚なもの、という意味は無かったとのことなり。


 大体の純文学ってのは、恋愛小説であることが多いです、つまるとこ生きるってのは愛する人と一緒にいることだよねーー、っていうしょうもない話です。実はそれって一番大衆的なテーマです、そうじゃないのももちろんある。


 ムーミンは恋愛的要素はほぼ一切無い。もっと暗いテーマです、ミイのキャラもなんかドギツいキャラになっていて、モランがほぼメインキャラとして大事な役を持ってるし、ムーミンパパは父親、っていうものの悪い側面を持つようになってます。そしてママは呆けてボケていく。息子は誰にも理解されない。


 特にママ、ってやつがIは興味をヒキますね。どうしてママってやつは、だんだん痴呆化してくっていうか、無感情になっていくというか、神がかりの方へ向かっていきますよね。ドストエフスキーの白痴、で忘れられないシーンがあって、白痴の主人公が悪漢の家へ訪ねていくと、その母親はもう完全にお祈り以外できないくらいに気が狂っているっていうシーン。
 

 というわけでこの本は純文学、よりも重たくて、息苦しいテーマにあふれています。それをうまくファンタジーにまとめてるって感じですね。