1-3 金は貸しても借りてもいけない
金を貸せば、金と友の両方を失うだろう
シェイクスピアの代名詞とも言える作品ですね。もはや説明不要ですが、あの名台詞は知ってるものの、どういう話か知ってるヒトは割りと少ない。
いわゆる後期シェイクスピアの幕開けとも言える作品で、冷え冷えとしていて、陰鬱な香りがする、デンマークという舞台もそれを飾るにふさわしいという感じ。最初の幕で先王の亡霊が出現するのも暗澹とした調子が現れてるし、まさに後期シェイクスピアっぽい、始まり方です。
先王ハムレット、とその息子ハムレット、と名前が同じなんですが、母親のガートルードが、死んだ先王ハムレットの兄弟、のクローディアスと結婚したところから舞台は始まります。
「兄弟と再婚するなんて近親相姦だ!」
とハムレットがキレるのもうなづけます。ハムレットは何才くらいの設定なんですかね?ハイティーンだったら、意味がわからん、と思うだろうし、20代だったらこの好色ババァ!!って思いますね。きっとここは後者とるべき、それでオフィーリアの運命が決まってくるわけですし。
ワタシがShを好きなのはそういうとこで、Shはリアリストですから、悪女の母ってものが登場する。NHK的価値観を持った人間ってのがいて、母親はすべからく子を愛するみたいなことをまじで言ってたりする。それはそういうやつも確かにいるでしょう、だけどその逆もいる。そこに人間の面白さがあるのに。Shは両方、をリアルに描ける。作家ってのは善人ではいけないと思います、アンタゴニストにリアリティが無い、かといって悪人でも困る、ヒーローのセリフに真実味がないし、一般受けもしない。2つ、それよりももっと多くの人格、を持った人が理想です。
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Sh研究者には嬉しいセリフとして、ハムレットはメタ演劇的な遊びがあって、つまり演劇の中で演劇ってのはこうだよな、っていうことを言ったり、それをギャグにしたりする。役者じゃあるまいし〇〇だろ、と役者が言う。マンガみたいな展開だな、ってマンガで言うあれです。
我々の時代にはトラジェディ、コメディ、ヒストリー、パストラル、パストラルコミカル、ヒストリカルパストラル、トラジカルヒストリカル、悲喜劇歴史牧歌劇、一幕物、自由詩などがあります・・。
と語ってくれます。本人が言ってるからその通りなんで、当時のジャンルってのはこんなにあったんですね。もちろんこれはギャグで、悲喜劇歴史牧歌劇、ってのはごちゃまぜってことです、けどShはそのすべてを殆ど自分でも書いてるのですね。
さて有名な3-1、ハムレットの独白をどうぞ。
To be, or not to be? That is the question—
Whether ’tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And, by opposing, end them? To die, to sleep—
No more—and by a sleep to say we end
The heartache and the thousand natural shocks
That flesh is heir to—’tis a consummation
Devoutly to be wished! To die, to sleep.
To sleep, perchance to dream—ay, there’s the rub,
For in that sleep of death what dreams may come
When we have shuffled off this mortal coil,
Must give us pause. There’s the respect
That makes calamity of so long life.
For who would bear the whips and scorns of time,
Th' oppressor’s wrong, the proud man’s contumely,
The pangs of despised love, the law’s delay,
The insolence of office, and the spurns
That patient merit of th' unworthy takes,
When he himself might his quietus make
With a bare bodkin? Who would fardels bear,
To grunt and sweat under a weary life,
But that the dread of something after death,
The undiscovered country from whose bourn
No traveler returns, puzzles the will
And makes us rather bear those ills we have
Than fly to others that we know not of?
Thus conscience does make cowards of us all,
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought,
And enterprises of great pith and moment
With this regard their currents turn awry,
And lose the name of action.—Soft you now,
The fair Ophelia!—Nymph, in thy orisons
Be all my sins remembered.
そしてこれはそのセリフの現代英語訳。こういうものがあるとおり、ネイティブにもShの原文だと意味がわからんってことです。
The question is: is it better to be alive or dead? Is it nobler to put up with all the nasty things that luck throws your way, or to fight against all those troubles by simply putting an end to them once and for all? Dying, sleeping—that’s all dying is—a sleep that ends all the heartache and shocks that life on earth gives us—that’s an achievement to wish for. To die, to sleep—to sleep, maybe to dream. Ah, but there’s the catch: in death’s sleep who knows what kind of dreams might come, after we’ve put the noise and commotion of life behind us. That’s certainly something to worry about. That’s the consideration that makes us stretch out our sufferings so long.
After all, who would put up with all life’s humiliations—the abuse from superiors, the insults of arrogant men, the pangs of unrequited love, the inefficiency of the legal system, the rudeness of people in office, and the mistreatment good people have to take from bad—when you could simply take out your knife and call it quits? Who would choose to grunt and sweat through an exhausting life, unless they were afraid of something dreadful after death, the undiscovered country from which no visitor returns, which we wonder about without getting any answers from and which makes us stick to the evils we know rather than rush off to seek the ones we don’t? Fear of death makes us all cowards, and our natural boldness becomes weak with too much thinking. Actions that should be carried out at once get misdirected, and stop being actions at all. But shh, here comes the beautiful Ophelia. Pretty lady, please remember me when you pray.
生か死か、それが問題だ。眠ることも死ぬことも大差は無いだろう、なぜ人は生きるコトの苦しみをいつまでも耐え忍び、剣を抜いて一気に決着をつけてしまわないのか?ということをハムレットは考えるという下り。
ハムレットは父の亡霊によって、暗殺の事実を知り、復讐を頼まれるわけですが、復讐しても、亡霊の証言などはあるわけもなく、復讐を達成すれば、自分が簒奪者とならなければいけない。
ハムレットという演劇は、今の世間の一般常識というか、一般的正解、とは違うことを言っています。
ハムレットっていうキャラクターはシェイクスピアの演劇の中でも随一のキレ者というか、ペシミストというか、それでいて、ユーモアの冴えも素晴らしく、演技も出来るという、一番のイケメンキャラです。
頭はキレるが残虐非道とか、剣の腕がヘタレとかがない、欠点の無いひたすらかっこいい人物。彼は生きてるということはただの苦痛だ、すぐに死ぬのがいい、このセカイは牢獄だ。みたいなネガティブ発言を毒舌とユーモアを交えて吐きます。
そして最後はシェイクスピアの典型的な全滅エンド。主要人物が一人残らず死んでしまう。
現代の作品ってやつは最後はキレイゴトで終わらそうとしますし、ハムレット的な人物は最後には打倒されたり、改心して、生きてくことにしよう、みたいな終わり方をします。現代といっても夏目漱石の小説ですらそうです、最後にはちょっとだけ晴れやかなエンディングがある。それを読んで読者も生きていこう、みたいな。シェイクスピアにはまったくそれがない、あくまで作品が美しくというか、作品の完成度が全て、というやり方ですね。
現代というか現在、は特にそういう反社会的なことをなんの解決もしないで終わらすっていう作品至上主義、みたいな作品は生まれにくいですよね、というか禁止されてるのかもしれない。反社会的作品はダメです、って出版社が決めてたりするし。
ワタシの意見としては、キレイゴトで終わらせたいならそれを信じさせられる自信がなきゃだめだってことですね。だいたいは、え~??なんかとってつけたようなキレイゴトエンディングだな・・って感じです。そのキレイゴトを信じさせることが出来たら作者の勝ちってとこですかね。夏目漱石の「それから」の終わり方がワタシはかなり好きです。どういうことかは読んでみてくださいな。
ハムレットでワタシは一つ謎があって、なんでオフィーリアは死んだか、ですよね。
オフィーリアはハムレットに父親を殺されて気が狂って入水自殺してしまうわけですが、父親が殺されたからって気が違ってしまうか??っていう謎が残ります、しかも父親のポローニアスはハムレットの言うとおり、偉そうなことをしゃべりまくる頭の鈍い下種野郎にすぎないのです。
それほどオフィーリアが純粋だったのか、オフィーリアは本心はハムレットに恋をしていたのか、それともこの悲劇をすべて見通して狂ってしまったのか?
ともかくオフィーリアの狂気の原因は、シェイクスピアらしくない、いきなりの発狂なんですよね。何か元ネタ、があるのか、オフィーリアのモデル、が存在していて、その影をシェイクスピアは見ていたから、ワタシはたぶんこれだと思いますね。オフィーリアには、実際の当てはまる人物がいたんだと思います。