2017年6月18日日曜日

1929 響きと怒り ウィリアム・フォークナー

 わけのわからない小説というのは数多くありますが、これもなかなかの強者です。けど時代がそうさせたというのが正しいという感じでしょう。

 ようは実験小説でして、語り手、が白痴であって、何を言ってるのかまったくわけがわからないようにしてあり、さらに、いわゆる時系列的展開、というのもぶっ壊していて、いきなり過去になったり、思い出したことを書いたり、ただの印象やら、を書きなぐったと思えば、謎の人物が登場して意味不明のことをいったり、お決まりのキリスト教のイメージがあり、セックスと近親相姦があり、黒人などの問題もあり。おまえらそれ以外しゃべることないのか?っていう感じで、イエスについての語りで終わります。状況説明とか、こいつは誰?誰がしゃべってるの?っていう説明が皆無で、たくさんの人間が殴り書きをしてるのを読んでるという感じ。

 どのくらいわけがわかんないかというとワタシは間違って下巻の、しかも真ん中から読み始めてしまったのですが、違和感は無くて、どっから読んでも同じです。


 ワタシは世界文学、ってやつをだいたいは読んでいますけども、フォークナーはなんか手が出ないでいました。なんか・・、嫌な感じを受けるから、ワタシはヘミングウェイも好きじゃないんですよね。アメリカ人と相性が悪いのかもしれません。


 ともかく、わけのわからない小説なんですが、これがどうしてそうなったか?ってのはわかります。特にこの1930年頃のセカイってやつは、ものすごい時代でして、なんでしょう、ブレーキが無いんです。極限まで突き詰める、もはやどうでもいい!っていう捨て鉢ともいえるほどの、情熱?ほとばしるパッション?リビドー?エネルギーだけが暴走してるような感じ。そしてだいたいは全部間違った方向というか、存在することが出来ないような場所へ向けてセカイ全体が自殺しようとしてるみたいな感じ。
 これはやっぱり第一次大戦、そして第二次大戦の気配。っていうのを感じてるんでしょう、それしか考えられない。なんかどっかでどうせもうすぐすべて死んでしまうさ、っていう、諦めと変な陽気さみたいな感じがあるのですよね。そして、戒律、というか教義、みたいな感じで、それでも一生懸命生きないといけないっていうのを、徹底的に刷り込まれている社会の圧力みたいなのがあるんです。

 それともう一つ、これは20世紀の作家の宿命なんですけど、オレはドストエフスキーにはなれない、っていうことに気づいてしまってるってことでしょうね。ドストエフスキーみたいな小説を書くことなんか出来ない。あぁいうふうな作品を描けたらどんなに幸せだっただろうって感じで。でもあんなのを超えることなんて出来ない。だから苦肉の作として、それまで、のやり方をぶっ壊すっていう方法しか無いんです、前衛っていうのは、進んで前衛になるんじゃなくて、王道、が閉ざされてる場合の逃避行なんですわね。そして逃げたところに新たな王国があるってことはない。前衛は野垂れ死にする運命にある。まさしく前衛の役割として最初に死ぬ。


ハッキリ言ってこの小説はまったくおもしろく無いんですけど、面白くない理由があって、むしろあえて面白くないものにしてるんですね。徹底的に面白くないものにしてる、確かにそれは斬新ですけど、この道はどこにも続いてないってことをすごい感じる斬新さです。

 レヴューとかを見るとフォークナーは20世紀最高の作家で、これは傑作中の傑作である、みたいなことを書かれています。これはユリシーズとかフィネガンズがそういうことを書かれるのと同じ理由です。それもまた、レヴューとか批評を書いてる人間自身も、オレたちはドストエフスキーではないし、ドストエフスキーのような同時代人にめぐりあうこともない、ということに気づいてるからだと思います。