2014年8月31日日曜日

fiva basket ball world cup フランスXブラジル イランXスペイン

http://forum.rojadirecta.es/showthread.php?225755-BASKETBALL-FIBA-World-Cup-2014-Grupo-A-Brazil-vs-Francia-30-08-14

 

http://forum.rojadirecta.es/showthread.php?225796-BALONCESTO-FIBA-World-Cup-Spain-2014-Gr-A-Ir%E1n-Espa%F1a-30-08-2014



バスケワールドカップが始まっております。
 フランスはパーカーがいないのが大きいですけどどうでしょうか。ブラジルはけっこうインサイドが強いです、スプリッター、ヴァレジャオ・・・・フランスはユーロを勝ってますよね確か・・・。いっっっっっさい日本のメディアは紹介してくれませぬ。

 
スコットランドが独立しようとしてるっていうでかいニュースもいっっっっっっっっっっっっっっっさい普通のメディアから知れないですね。すげぇです、ある意味。

2014年8月30日土曜日

1939 無法松の一生 岩下俊作

 小説よりも映画のほうが有名ですよね。しかし・・・・これは若い人には全然面白くない本でしょうなー、Iも面白くなかったものw
 松という無法者が純情でありながら、後家のおばはんに恋を秘めたまま死ぬという、なーーーーーーーーーーんじゃそりゃ!っていうくらいなんでもないお話です。なんていうんだろうなーー、粋な小倉者の松の文字通り一生を描くのですが、これが人気出るのかぁ・・・って感じです。ジェネレーションギャップを感じますね。
 しかしながらこれは作者が30代の作品でして、30代のヒトが予想で一生ってこんなものじゃないかと書いたものなので、実際一生を送ったヒトからするとそんなんじゃねぇぜ、一生ってのはってものだと思う。事実松の40代の描写はものすげーペラペラな感じがする。

 やっぱし面白いって思う部分が全然ちゃうのでしょうね、そりゃ水戸黄門見て面白いっていうヒトがいるのと同じで、違うものはしょうがない、何かその琴線に触れる部分の琴線が無いって時はどうしようもない。
 

そう考えるとやっぱシェイクスピアとかが何百年も生き抜いてるってことの凄さがわかりますね、だってたいていジジババが面白いと思うようなものってコドモには面白くねぇものです、たった50年ぽっちでどえらい価値観が変わってしまう、それなのに何百年も残るってのはほんとにすごいことなんですなぁ。

2014年8月29日金曜日

1990  グラディウスIII  Gradius SFC KONAMI




なんでⅢから?というに、Ⅲからスーファミだからですね。シューティングってのはIはコドモの時には一切手を出さなかったものですが、オトナになって、小狡い手法を用いるようになってからはなかなか楽しめます。
 逆にガキの頃は出来た時間喰い虫のRPGとかはかったるくなって出来ませんね、謎解きとかクソめんどくせー、ってなる。謎なんか解きたくない、と思う。コドモのころはせっかく5000円近く出して買ったのに3日くらいクリアしちゃうともったいない!もっとちゃんと面を多くしろや、とメーカーにキレてましたが、最近は少ない面でもよく出来てるもののほうが良いとおもふ・・・。
 

 なんでかはわからないけどこのゲームラスボスがめっちゃ弱いです。というかだいたいにおいてシューティングってボスよりも途中の面が難しいんですよね、ボスは動き見きれば勝てるから。ラスボスの難易度ってのはやっぱゲーム全体の出来を左右するから、ちゃんと作らないといけないなーとすごく思いますね。ほんと終わりの印象って大事。 
 最近は映画とかでも、エンディングの曲は映画本体とは全然関係なくてぶっこまれるって場合が多いですけど、その曲がいいと、音響もしっかりしてたりすると、なんとなくこれはこれで良かったのかも、って騙されることがありますね。逆の場合は目も当てられないけれど・・・・なんか事務所の圧力かなんかでクソアイドルの曲とか鳴るとね、すっげー腹たつ。

2014年8月27日水曜日

MAKING 175








 やっと27話が終わりました!長かったなー。夏も終わろうとしとるやないか!

1872 フランダースの犬 ウィーダ

 


アニメは知ってるけど原作を読んだ事があるヒトは超マイノリティだと思います。
 実は小説はネロではなくて、犬のパトラシエの一人称だったとは、驚きです。そして内容はルーベンスのキリスト磔が軸になって展開される、キリスト教的要素の濃い話しです、アニメとは全然ちゃいますね。作者がキリスト教であるかぎり話しの展開というのは決まっていて、貧しくともココロの正しい人間が天国で良い目に合うという、お説教です。
 ネロもクソみたいな貧困で最終的に教会で凍死するんですね(餓死するんだと思ってた)、しかしネロには絵の才能があって、ちゃんと生きていたら良かったのにね。っていう終わりなんです。それでもこれは良い作品ですね。ネロのセリフ

「パトラシエ誰もボクラを必要とはしてないみたいなんだ」

 っていうのは文学史上でもものすごいセリフですね、だってパトラシエは犬ですから。小説ってのは主人公1人で成り立ってるってことは無くて、絶対他者との出会いなりがあるわけですけど、犬しかいないなんて最悪です、そんな孤独地獄で死んでいくコドモなんてのはちょっとあまりにも悲しすぎるじゃないかw けど友達が犬しかいないっていうヒトは現実にはまぁかなりいるのでしょうね。だからこの作品は犬しか友達がいないヒトのバイブルですね。


 貧困、ってのが文学、特にコドモ向けの文学ではテーマになってるのですけどやっぱ貧困ってのはリアルなんですよね、世界のすべての人間は、ごく一部を除いて貧困なんです、貧困こそが唯一のリアリティだと言ってもいい。貧困を無くすとか言ってるヒトがいますけど貧困をなくしたら人類ごと無くなってしまうくらい貧困は世界に溢れかえってます。
 アーティストなり作家なりが、成功して小市民になると一挙にリアリティを失って何も書けなくなるのも当然といえば当然で、なんだろう、それでもずば抜けた才能で、自分が小市民のブルジョアであるのに、よい作品を残せるってのはまぁーひじょーに難しいですね。明治文学が、断然クオリティが高いのはやっぱ作家が貧乏だったってことだと思います。

 

 WIKIによるとこの作品は全然有名じゃなくて、鬱展開すぎる、ってことでアメリカなどでも人気が無いみたいです。納得・・・。でもロシアとかでは人気が出そうですけどね。

2007 日本文化における時間と空間 加藤周一




 お固い本です。インテリ気取りの人々が語るコトバってのがあって、吉本隆明の共同幻想、丸山真男の永久革命としての民主主義、加藤周一の日本人の いま、ここ性。ってのもその一種。

  
 非常に簡単にいうと日本人の価値観はイマ、ココという刹那主義的であって、同時に村社会である排他的で付和雷同的である。ということを、いろんな引用を使って説明しようとするというものです。当たり前のことを言ってるにすぎないって気もしますが、思想なんてものはそういうものです。


 アナリスティックロジック、分析哲学、ってものがあってつまりそれはロジックを数学的にとらえてほとんどの言説は何も言っていないということを証明するものでしたが。その中で、こういういわゆる文化論、過去の文献とかから引用を集めて何かを主張すること、事実列挙式の論証、というのは、すべて証明不可能の無意味な駄弁であるということを証明、しました。


 Iはやっぱ分析哲学の言ってることが正しいと思いますね、日本の文化はこうなんだといくら例証をたくさん出して来たところで、無限に例証を連ねたところでそれは別に何も表していないって気がします。(サイエンスのように実験による例証が不可能なので)
 日本の文化、というけれど、日本の文化に参与してる日本人なんて日本人の0.001%にも満たないでしょう、ほんの限られた一部の人間たちが作ったものがどうして、日本、の文化になるのかというのは謎です。たまたま日本という場所であったというだけで、ごく一部の集まりの作品、それをまとめたものが一緒くたに日本文化、と言われても、は?という感じです。
 能や歌舞伎が日本文化を表してる、けど一体どれだけのヒトが能なんか見てるのでしょうか、それは 日本、の文化なの? 日本、というカテゴリの作りかたははっきり言ってムチャクチャです、日本の・・・・っていうものは一体便宜的以上の何を表してるのでしょうか。それはやっぱりプロモーションとして楽だってだけだと思います。



 そして文化史なんてものは、結局 残された作品 と有名な作品、だけをピックアップしたものだってことです。別にいい作品だけが保存されるわけでもないし、優れた作家の作品は必ず評価されるわけでも全くない。むしろ逆です。それは今の文化でもわかることです、優れた作品だからって評されて残るわけじゃない、ほとんどのプロモーションだったり、運、カネ、の問題です、クソみたいな作品が支持されることのほうがよっぽど多い。またメディアの性質として残るメディアもあれば消えてくメディアもある、そうやってたまたま残ったものについて並べて論じて、どうしてそれが 日本、 の文化についてわかるのかってのがわかんないです。消えていったほうの文化はどうなったのであろうか。


 だいたい歴史は政府の行動をして日本の意思、とするわけですけど、政府の行動に関して意思表示したりできる人間もこれまたごく一部の特権階級です、それは日本人の意思なんでしょうか?それもたまたま残った、ものから全体を描こうっていう無茶な話しって気がします。


 ほとんどの99%以上の日本人は総称される日本の文化とはまったく無縁だって気がします。古事記を読んでるヤツなんて1%いないし、本居宣長なんてちゃんと読んでるやつは1万人もいないでしょう。それが日本の文化を代表するの?ナンセンスw イギリス人だってシェイクスピアをちゃんと読んでるのはごく一部です。
 ただのごく一部の特権階級の行動分析ってのに国家とか民族性なんてわかりっこないよって気がするのですけど、それ以前にほとんどの人間なんてものは全く何も考えてないってだけで、それは日本人が付和雷同だとかそういうのは後付ってことだと思います、ほとんどの人間はまっっっっったく何も考えてない、ってのは、人間ってのの一般的性質で、日本人だけが阿呆だったりクソみたいに保守的だったり、汚職をしたりするのでは絶対無い。ただ単にほとんどの、ホモ・サピエンスは論ずるに足らないくらい全くの無内容、無思想だってことです。
 よくいう日本人は無責任だっていうけど、あらゆる人間は無責任です、日本人は日和見で長いものにまかれろで、個性が無いというけれど、あらゆる人間がそうです。ただほーーーーーんの一握りの英雄的な人物、特別な人物がそうじゃなかったというだけどそれがたまたまイギリスとかにちょこちょこいて日本にはあんまりいなかったという、たったそれだけのことで、イギリスは個人主義であるみたいなことを言ってるだけなのだと、Iは思いますけどね。


 知識人というものが、昔はいたのですよね。けど知識人ってのが自分たちで思ってるよりはカスみたいな力しかないということを、ヒトラーやマスメディアは証明して、知識人というのは不要になった。知識人の論説のあまりの無力さってのに愕然としたわけです。
 知識人というのはこれからもどんどん減っていくでしょうね、やはり無力なものは廃れていくものなんです。そしてやっぱり知識人の発想が、自分たちが一部の特権階級であるわけで、結局彼らの言ってることも一部の特権階級、天才たちがしたことが、全体であるっていう奢った感覚なんではないでしょうかね。





 

2014年8月23日土曜日

1942  姿三四郎  富田常雄 

 リンクを張ろうとしたけど、なんと現在廃刊です。




黒澤明のデビュー作はこの姿三四郎でして、それによって知ってる人が多いのではないでしょうか(いや、全然いないか)。 
 まず驚いたのはこの富田常雄ってのの親父が講道館柔道の旗揚げをした、講道館の富田なんですね、マジなんじゃんか。講道館の幹部の息子が三四郎という物語を作るなんてなんか普通は避けたくなるようなテーマですけどね。


 三四郎のモデルは西郷四郎というのは後からついた伝説であって、作者はそういうつもりではなかったようです、小柄で得意技は山嵐、っていうとこぐらいしかあてはまってませんし、柔道で物語を作るなら、柔よく剛を制すでして、小柄な人物を主人公にすえなきゃいけないってのは、どんなバカな作家でもわかることです

 三四郎という名前自体は、漱石の三四郎から来ていて、そもそも三四郎という名前は、23、24くらいの大学卒の浪人、のような人物という、ことで、つまり浪人だ、ってことです。今ではNEETとかクズとかホームレスとか言われてますけど、浪人、という良いコトバがずっと昔からあるのです、今だと大学受験の失敗者のことを浪人と呼ぶ節があるけど、なんでもない人間、のことを浪人、と呼ぶのです。宮本武蔵は素浪人と言ってますが、素浪人とは素寒貧の浪人のことで、一文無しだってことです。浪人はもちろん悪口ですけど、逆にそれがかっこいいのも事実。浪人は武道を鍛えるといいのかもしれませんね、それでヤンキーどもを逆に片輪にしてやるっていう。



 山嵐ってのがどういう技なのか調べてみましたけれど全然意味がわかりませんでしたね、ともかく大外刈と背負投を組み合わせたみたいな技のようです、昔から西郷四郎だけにしか使えない技だけだったみたいなので意味がわからんのも当然かもしれません、つまるとこ、足を払われながら投げられるので受け身を取れないっていうか投げ捨てでポイっ!って投げちゃうので、絶対に投げられたほうは怪我をするわけです。現在のスポーツ柔道は全然武道からかけ離れたポイントを稼ぐスポーツなんですけど、昔の柔道は武道ですんで、受け身を取らせてあげなくてもいい投げ捨てでいいのですね、じゃなかったら別に投げられたところで怪我はしないもの。三四郎はまるでジョーみたいに山嵐をかけた相手を全部死においやるわけですが、それは三四郎が山嵐を使うからです。パイルドライバーをかけるみたいなものですね、あれはマジでかけたら死ぬ技ですから。 
 


 この作品はガチの戦争下でかかれた作品でして、検閲逃れとして右派的なことを言ってるのか、それともほんとに日本の武道と民族の高揚ってのが作者の本音なのかよくわからないとこがあります。戦争下でどういう作品を書くのか、で三四郎は 「死ぬことだ」 っていう、なんだろう、覚悟を与えてあげるような作品です。滅私、して空となれ、っていう空の境地に至れっていうのは、これから死ににいく若者に対して慰めでも、言い訳でもない、勇気を与えるものです、そういう優しさなんですよね。死んじゃだめだ、っていうのだけが優しさじゃない、この状況で、死を避けられないって時に、死すらも自我、空を得よ。というのは勇気になる。


 和、の思想というのが作中で展開されてますが、これが三四郎の核となる思想なんです。つまるところ和の思想とは闘争の正当化理論です。




和 について (闘争の肯定の理論)

 要旨

「闘争も敵対も1つの結び合う仕方である。仏教では敵や損ない合う者同士を無縁のものとはせず、縁が深いとする。それは逆縁であり
和の裏である。昨今の平和論は機械的に、静止的平和のみを平和という。しかし平和とは闘争を通しての平和しかない。新しい統一の
中にだけ新しい平和がある。闘争とは新しい平和への道筋であり、闘争とは古い、誤った統一の崩壊である。
 順と逆、裏と表なくして和はない、その逆を順へと受け、逆縁を和とするのが、和の働きである・・・」


 これはすげーいいことを言ってますね。そして戦時下という緊急事態でも、その体を守っていける強い思想だと思う。



 吉川英治の宮本武蔵と並んで三四郎は、戦争に行く若者のバイブルとしてみんな読んでいたものです。そして今みたいに闘争が避けられないってときにはやっぱりまたみんなのバイブルになるんじゃなかろうかと思いますね(武蔵はVAGABONDとしてマンガ化されてますしね)。ともかく若者よカラダを鍛えておけって、60年代安保みたいなことを言っておきますw



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 まとめ



・文明開化とは贅沢への覚醒に他ならなかった。(西洋を礼賛する)その結論は日本人はつまり野蛮人であるということである

・すぎたことは過ぎたことです。これからは生きた者で最善の道を行くより他ありません

・人間の道を知るなら、その道を直ちに行うことが出来なければならない。行うことが出来ないならばそれは知っていることにはならない