2015年9月5日土曜日

1594 Taming of shrew じゃじゃ馬ならし  WS   アンチフェミニズム

 シェイクスが乱発気味に描いた初期の喜劇の1つです、じゃじゃ馬ならし、という述語がひとつの商標登録みたいになってて、じゃじゃ馬ならしという言い方、を独占しちゃってますよね。

  それでもシェイクスは初期の作品では次々と新しいことにチャレンジしてみようってのがありありと現れています、SHREWでは劇中劇というアイデアを使ってます、スライ、という呑んだくれが、貴族のわるふざけのドッキリをさせられて劇を見るという筋書き。


 しかし劇中劇が終わったところで、スライはどういう感想を持ったか、というのはなくて、劇中劇が終わった時点で劇は終わってしまいます。これはわざとそうなのか、途中で書くのをやめたのか、時間が無くなったのかわかりませんが、終わっています。 オープンエンド、最後のちゃんちゃん・・、まで描かないで途中で終わらすことによって客に想像させる、スライはあなた自身、つまりあなたがスライなのだ、という考えオチの可能性もあります。

 けどIが思うには、これは上演時間的な問題で、SHREWはすでに尺を使い切ってて、最後のオチまでやる時間が無くなったんだと思います。悲劇と違って喜劇はたぶん時間を3時間くらい、一日で終わるものにしなきゃならず、しかもかなり即興的に書いてる節があります。悲劇は何日かに分けて連続興行でしかも客も上流階級だったんだろうと思いますしね。


 劇中劇というのもありますし、劇中劇の中でも劇が進行するという入れ子構造で、劇中劇の中の人々も、他の人に変装したり演技をしたりする、ひじょーにややこしい、台本だけみると名前もまどろっこしいホレイショーだのルーセンショー、グレミオー、グルーミオ、とわかりずらい、けどこれもわざとでしょう、わかりにくくすることでごちゃごちゃしてる感を出したかったのでしょう、それに劇になってしまえば、名前がわかりずらくても、役者が目に見えるのですしね。
 この劇はアナクロニスムや、時系列がおかしかったりと破綻してる場面もかなりあります、それも劇中劇の劇を描いた脚本家が腕が無かったから間違えてる、というネタともとれます、劇中劇の俳優がミスをしてるとも言えるので、なかなか深い演劇です。


 筋としては、鼻っ柱の強い女をどうやって手懐けるか、それはこっちも超ドキュンな夫を演じることによって、めちゃくちゃなカオスを演じることによって音を上げるだろう、そして最後には高慢な姉が、貞淑で大人しい妹よりも一番言うことを聞くようになった。というオチです。劇の最後に高慢な姉のケイトが夫は外で頑張って働いてるんだから、妻は夫を立てて、嘘でも機嫌よくしろ。つまり良き妻を演じることだ、ということをいいます。




 フェミニストがそういうふうに女をバカ扱いするなんてたまらん!!特に最後のその女は夫の召使的な発言は反吐が出るって言うのですが、さてそれはどうでしょうか。



 実際の現代は、フェミニズムは廃れて明らかにアンチフェミニズムの時代になってますよね、はっきりわかるんですけど1997年くらいからです。むしろ男女同権っていうよりは、女はもっと女らしく生きるほうがベター、っていう。
 ガーリーブームです、girl girl girl !!猫も杓子もガール、ブームによりて、女とオトコが同権であって、社会的地位も同じのほうがいいっていうフェミニズムのノリと真逆に、キャリアウーマンとか結婚出来ないだけじゃーーん!。アイドルとかカワイイほうがいいーーー!!っていうふうにベクトルが完全に逆になりました。



 ガールブームを作ったのは明らかに同人マンガですよね、現実の女が鬱陶しくなって、ガール、美少女ブームになって、現実のほうがそれに後乗する形でガーリーブームが到来してるわけです、20年ほどたった今でもそうです、それは日本だけじゃなくてアメリカでも明らかにそう、かたっ苦しいフェミニズムなんてクソうんざり、もっとオトコにモテたい、女の子っぽく、っていう路線に変わった。シンガーは意味もなく薄着になって、パイオツをもっと出していかないと、猫も杓子もパイオツとケツ、っていうふうになりました。


 この演劇をフェミニズムの観点からもはや時代遅れだ、と20世紀初頭の人々が語ったというのですが、もはやフェミニズムが時代遅れなんですよね、コトバ本来の意味で、フェミニズム、より女らしく、という意味で、本当のフェミニズム、が到来してるのかもしれません。
 女子力、っていうコトバが端的にそれを表してますよね、女子力超下がってます~~、っていうのはフェミニズム的な言い方からすると、まったく真逆、ふざけんな、女だからって女子力ってなんなんだよ!って反発しないといけないのに、オンナが自分で女子力を上げよう~~☆、って言ってるんですもん。フェミニズムは完全に時代遅れ、それなのに政府は女性の社会進出、とか言ってますけどそれもまったく逆ベクトルの発想です。



 シェイクスピアは真実を見てたって言えるんじゃないですか、オトコみたいに肉体を酷使して働くのはしんどいんだから女は笑顔くらい作っとけや。って、フェミニズムで社会進出したオンナが一番それを感じたんだと思います、なんか・・・働くのしんどーーーい!!もっとちやほやされてオトコにおごってもらって、家でぐだぐだして、おしゃべりとか女子会やってたほうが楽しいやって。セックスするだけでカネもらえるなんて超楽じゃん、おっぱいみせてダンスするだけでこんなに稼げるなんてこっちのほうがいいや、勉強とかやだもん、ってこと。



 フェミニズムの奴らってのは口先でしゃべってるだけですからね、平等な社会だから、権利も平等にしよう、差別をなくそう、頭から出ただけの口先だけのコトバです、シェイクスはもっと本当のこと、を見てコトバを選んでる、シェイクスは結局そうするほうが、オンナには向いてるんだよってことをちゃんとわかってて言ってます、ただ女性蔑視で言ってるんじゃない。オンナにはオンナの、、があるってことを誰よりもわかってますから。



 バプティスタという姉妹の父がいるんですが、妹の夫を選ぶ時に、遺産が多いほうに娘をやるっていきなり言います。おや!と思いますが、シェイクスの覚めた目線があるんですね、バプティスタはいいお父さんのようなかっこをしてるし、娘のココロが決まるまでは・・・とかいうのですが、いざ花婿選びとなると、カネだけで決める。シェイクスは恐ろしいリアリストです。普通の劇作家ならバプティスタをもっと善人にしますでしょう、そうじゃないとペトルーキオが持参金目当てのみでケイトと結婚するっていう効果が薄れるから。


 でもそうじゃない、持参金目当てのペトルーキオはカネ目当てでじゃじゃ馬ならしをした悪い男というオチじゃないのだ、オンナなんてむちゃくちゃすれば何でも言うことを聞くのだ、というオチでもない、楽しくやろうぜ、ってことなんですわね。だからイタリアが舞台なんだし。ドルチェヴィータ、粋にやろうぜっていうイタリア喜劇なんです。