2015年9月25日金曜日

1939 八十八夜 太宰  筑摩 太宰 全集 2

 太宰治のレヴューを描くのは難しいです。短編ごとに一個ずつレヴューを描くのは煩雑だし、といって短編集という風に綺麗にまとまっているというわけでもない。代表的な長編ですべてを語れるかというとまったく違う。それにスタイルやテーマも一貫してるというわけでもない。
 太宰治というと破天荒でめちゃめちゃな私生活をぶちまけるっていう人生こそ作品、タイプの桂春団治系の破滅型だと思われがちですが差に非ず。むしろ太宰治っていう人は、ものすごい勉強熱心で、いろんな文体やスタイルの研究をするような、技巧派の作家です。話法とかテーマみたいなものも狙いがすごく定まっていて、どっか自分のことを第三者的に見れる、ドライな視点の持ち主というところ。
 
 別に太宰よりもダメダメで、むちゃくちゃな生活をしてる作家は他にもいるんでしょうし、そういうダメ人間なんて吐いて捨てるほどいますが、だからって太宰治にはなれません。太宰はモテたんだぜ・・、って言うのがダメ人間が作家になろうとしてる時に諌める急所の定石となってますが、それだけじゃない、太宰は大金持ちの息子で、顔立ちも女を惹きつけるタイプ、そして頭も良くて、文章の技術を研究する努力家でもあったというわけです。貧しくて、モテなくて、ルックスも悪く、バカで怠け癖がある。という典型的ダメ人間とはむしろ対極、太宰ってのは負け組でもなんでもなく、生まれながらの超勝ち組。スーパーエリートといってもいいです。金持ちの堕落、天才の破綻だから面白いのであって、貧乏人の貧乏自慢やバカの惨めな話とはまったく違うわけですわね。太宰みたいな作家になりたければ、まず才能は置くとしても、大金持ちの美男子として生まれないといけない。そうじゃないと成立してないのです。けど大金持ちの美男子であるならそもそも作家になんかなる必要がない。だから自己破滅的な人生を歩むことで作家になるしかない、とこういうわけです。



 Iは太宰の女の描き方ってのが一番好きです、宮﨑駿みたいにモテない人が描く女ってのはまっっったくリアリティがありません。モテないやつが描く女ってのは二極化で、聖女みたいに一点の曇りもなく、エロい下心などを一切持たない絵に書いたような美少女か、あるいは性格ってものが殆ど無いワンパターンでステレオタイプなおっぱいちゃんです。太宰は正直、女を描かせたらセカイで一番上手いんじゃないですか?ともかくIはほんと好きです。作家にかぎらず基本クリエイターってやつはモテない君の集まりですから、女を描くのが上手いってのは殆どいない、女の監督、女の作家ってのはもっとひどくて、だいたいは明け透け過ぎて全然女としての魅力が無いです、むしろなんか腹が立ってくる、自己礼賛的な調子か(やっぱり女はセカイを変えるチカラがある・・みたいなファッション雑誌のノリ。バカかこいつら・・って思う)、ゼニゲバの悪女になる。現実をありのまま描くのは一番リアリティがない、とキューブリックも語ったとか語らないとか。リアリティ、と現実ってのは違いますからね。街に定点カメラを据えてずっと撮影すればそれは現実かもしれないけどリアリティは全然ない。むしろリアリティってのは現実によって隠されてるもんですからにゃ。

 逆にオトコをかっこよく描けるのはだいたいがゲイの人です。オトコは女を美化しすぎてるといいますけど、女が描くオトコはなんにせよ気色が悪いです、妙になんか仲良かったり、ぎょぎょっっ!!うぉえっ!!ってなります。そしてだいたい少年、に落ち着くのですよね。少年ってやつはユニセックス的なところがあって、誰が書いてもなかなか様になる。少女ってのはまったくユニセックスではないです。少年ってのはまぁ・・12才くらいまでは、ユニセックスなイキモノですからね。まず何にも考えてないから。少女ってのはもう5才くらいから全然ちゃいますからね。


 ただ太宰に唯一欠けていたのは、長編を綺麗に構成する構成力ですわね、それは太宰のアイドルだった芥川も同じでした。けどそれは作家にとっては致命的で、世界文学、古典的文学、ってのは99%が長編です。世界の文学ってのに短編が乗るってことはほぼ無い。海外の読者には漱石とくらべて、太宰、芥川は圧倒的に知名度が低い、それはこれだ!っていう決定的な代表作、長編、が無いからなんですね。むしろ世界文学なんてながければ長いほど格がある、ってもので、失われた時・・・は除外するにしたって、戦争と平和もカラマーゾフもドン・キホーテ、神曲、すべてかなりの長さです、人間失格なんて一日で読めるけれど、カラマーゾフを一日で読み切るのは相当な困難です。
 仏教が廃れたのもそこに原因があると言われてます、キリスト教やイスラム教にはこれだ!っていうバイブル、があるのに仏教のテクストってのはバラバラでそれぞれに言ってることもまったく一貫性がない。それだと引用したり、このテーマで話そうって時に、ベースとなる古典、として仕えないんですわね。ブッダが何をしたのかってのは結局のトコよくわかんないです。王子だったのに出家して、断食してガリガリになり、悟りを開いた。ってくらい。WHY なぜに? どうしてそうなったのかってのがよくわからん。


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 太宰の31才の時の作、というに太宰はことあるごとに31であると強調するから。もっと老大家になり、カラマーゾフや戦争と平和のような大作を書けるようになるまで生きていたい、という願いと。少しだけ生活が安定して、以前のような破天荒な生活ではなく、小市民的な商業作家に堕落していくような自分への怒りと迷い、とが溢れている作品なり。
 貧乏作家として非常によくわかる、いや、もぉわかりすぎて吐き気がするくらい同じような気持ちをかかえている、30近くの芸術家はあまねく存在していることでしょう。
 自分が俗悪な人間になっている、という怖さ、美しい人生ではない凡人になってしまうという恐れ、それを振り切るために旅に出るという物語。しかし旅は失敗し、数少ないトモダチも失ってしまう。タダカネの為にページを埋めた小説、それも合ったという告白・・・太宰ってのはなんて正直な作家なんですかね。太宰という人は、信用出来る作家です。こういう作家は珍しい。誰かを信じたらすぐに裏切られる、モデルと結婚したり、豪勢な家に住んだり、すぐに堕ちていく。信じようとした人が堕ちていくのを見るのはすごく悲しい、身がえぐられる。親が正気を失ってボケていくのを見るように、切るようなイタミ。まったく絶望的にさせてくれる。

 それでも最後は夜明けエンド、これから死ぬ気でやろうという朝日の物語、Iはだいたいにおいて夜明けエンドが好きなんですね。漱石のそれからがものすごい好き。それから、の主人公も30才なんです。