2013年2月7日木曜日

OP9 アップロード先/ 順撮り連載批判

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=manga&illust_id=33377842

PIXIVに上げはじめています、ブログは容量の問題の表示が見づらいからです、他のマンガ投稿系のサイトも生のファイルをHTMLに貼ってくだけのほうが見やすいと思うのだけれど、ダウンロード簡単にされるから嫌なんでしょうね、管理社会。
 けれどクリエイターの水道理論ってやつで、最も表現の自由と言論の自由が保証されてるところに才能は流れていくものだと思います、ネットの発達で社会のパッキンがいかれた状態の今日では特に。
 最近使ってるサイトは中国サイトばっかですものね、youku、新浪、98、検閲問題が騒がれる中国ですけど、党への攻撃以外は結構だだ漏れで良いです。別にポルノ規制もしてない。しかも中国が規制しているのは、資本主義的国家への言論統制なので、通常、資本主義国家で検閲される内容とは真逆です。中国ではボルシェヴィズムや世界革命理論について公然と討論を行う事が出来る、アメリカは表現の自由といいつつ、マッカーシズム、アングロサクソンユダヤ人の圧力で極左の言論はほぼメディアには登場しません。チョムスキーも。ラッセルですら。だから検閲はどちらにもある、そして真逆なので、双方の意見を聞けるというわけでもあります。
 特に中国は他の国家の著作権なんて一切守らないという姿勢が良いですね。そしてそれは当たり前です、共産主義は生産手段の国有化、そしてそれを効率的に運用する時に、資本主義的な構造を一部取り入れているだけだから。国家にとって有益であれば、著作権は国有化可能だし、されるでしょう。


    順撮り連載批判論 ノンリニア構造
 OP9は、順撮りじゃない連載方式を取っています。連載というのは順撮りで書かれています、99%は。当たり前だと思われるかもしれないけれど、順撮りってやつは、はじめから内容をすべて決めないと緻密なストーリーを描けません、でもそれでは書いてるうちにストーリーが進化していくっていう、絵を書きながらストーリーをアレンジするってのが出来ない。結果ありきたりのストーリーの構造か、企画倒れで破綻してしまう。
 例をあげると、鋼の錬金術師とかが悪い例でした、等価交換と化学式の説明を軸に、始まったわけですが、後半はほとんど気合の問題で、賢者の石はなんでも出来るみたいなことになってしまって破綻した、同じ例はガンダムのニュータイプとか、EVAの初号機とか、ナウシカの超能力とか、タイムリープ系のすべてのSFとか(ハリーポッターの二巻で時間を戻せるアイテムが登場したのに、ダンブルドアが死んだ時になんでそれを使わねぇんだよって誰もが思ったはずです、セドリックがやられた時も、特に悪の魔術師のヴォルデモートがなんでその、時間を戻す系の魔法だけは使わないで正々堂々勝負するのか?心臓を7つに分けて保存するようなやつがですよ)
 それは映画などでもそうで、金の問題で映画も最初にすべて決めてしまってから、トップダウンで作品は作られます、だから黒澤は脚本が映画のすべてだと言ったわけです。
 駿さんの作品はそれが改善されていて、彼が絵コンテ書きながら同時に作画などもやらせて、どんどん作品が固まってきてから絵コンテの続きを描く、という、ただの順撮りよりも進歩した製作段階がとられています。
 こういう実際的な、作業の構造が、ストーリーのフォルムも規定するというのを、多くの人は無視します、作者の頭の中にはすべてが完成している、的な考え、そんなわけない。っていうかそんな作品つまんないに決まってる、書く前に完成してるのなら、描く必要が無い。書いてる内に作品は進化していくものです、芥川が言うに、作品の完成度は、運、だ。
 ほとんどの人は作品の完成度は作者の才能で決まると思っている、実際は才能は当然必要だけれども、それを土台に運の要素でどれだけの高みにいけるがが決まってくるものです。
 OP9が採用してるような、順撮りじゃないイメージボードの連続みたいな方式は(ノンリニア方式と呼びます、線形でないということ、あるいはベクトルじゃないということ)、書きながら作品の順番、構造などを順次変えていけるので、ストーリーの緻密さを高める事が出来るはずです、特に絵を書いていくという行為は、推理小説を描くのとは違って、プロットというよりも、キャラクターの人格によってストーリーが進化していくものなので順撮りはよくありません。表情を描いてみて、あっそういう感情か、と気付かされる、けれど、途中で切り売りすることが出来ないし、OUTするフォーマット、インフラが整備されていないという弱点があります。読者の想像力の問題もある、不連続のイメージボードが与えられて、そこから大きな作品像を描いていくという、新しい読者、の作品に対する態度がなければ、これは成立しません。ノンリニア読書は一般性を得られるか?は重大な問題です。もしくは 非線形の感動はありえるか?
ということです。
 
 歴史的に見ると、いわゆる連載漫画の王道スタイル、次々と新しい強敵、ライヴァルが現れて、それを1つずつ倒していきながら、大きな1つの物語を構成する、というスタイルは、梶原一騎が発明(完成)したもの。1つの大きな物語を語るというのはもちろん手塚治虫的手法、もちろん読み切りの小話というのは一番古い手法。エッセイ、恋愛など他にも手法はいくらでもある。
 
 西遊記が梶原一騎スタイルで、三国志が後者であるというとわかりやすいでしょうか。後者(グランドストーリー的手法)は、やはり最初からすべてを決めてから書かないと途中で破綻するもので、歴史であればすべては決まってるので一番書きやすい、けれど、途中中だるみや、面白くなるまで時間がかかったり、クライマックスが尻すぼみになる事も多い。
 前者の古典的作品はあしたのジョーです、後者はやはりナウシカということになります。この二つを超える作品は生まれてないし、まったく違うスタイルというのも、確立されてはいない。スラムダンクは手法的独創性に欠けているので次点。読みたいものを読まさせる古典芸能みたいなものですね、あるいは商業的コンテンツ(エンターテイメント)としては、最高のものが出てしまったという気もします。
 EVAもやはりアニメを主眼として作られたものなので次点。アニメをマンガにする意味が乙にはほとんどわからない。スピンオフというのもどうかね?スピンオフもアニメで作ればいいじゃんと思うだけですが・・・
 マンガにはマンガにしか出来ないものがあると思われます、ともかく低予算で可能だということ。こういう予算の問題は芸術は予算なんて関係ない、みたいな事をいう人もいます、そういう芸術のプロデュース面を顧みない人は、一面的にしかものをみてないとしか考えられない、むしろプロレタリ文化のように、作者がプロレタリ、もしくは農民であることが、作品の内容よりも重要である、というスローガンを再考すべきでしょう。