Iは坪内逍遥の作品を読むのって始めてかもしれませぬ。なんでこれを読むに至ったかというに、焼跡のイエスなる短編読もうと思い立つ、けれど見つからず、岩波近代短編小説選なる先週に収録されりを知れり。このような時、読みたい話のみならず、はじめからすべて読むのが、作者の癖なりき、よって第一巻の最初の細君について記す由也。
なんて擬古典文を書いちゃいますね。このようにこの時代の小説は色んな文体があったのですよね、擬古典文、漢文調、江戸時代風、候文、翻訳文、歌舞伎調、講談調、落語調うんぬん・・・・、やっぱ漱石の猫から、落語の話し言葉を起源とする言文一致体になったのでしょう、つっても漱石は草枕みたいに漢文調をいきつもどりつしますけれどもね。
小説っていうものは輸入されたものなのです、恋愛、というものも。恋愛は輸入品であって始めっからあったもんじゃないんです。だからまぁ・・・恋愛で生き死にするっていう発想はちょっとスタンドプレーじみてますね。源氏物語も恋愛といえば恋愛なのですが、恋愛というよりも、政治。ん~・・・西洋風の恋愛と、和歌の恋唄とは何が違うんでしょう・・・、セックスじゃない、プラトニックラブってことですわね、恋愛、っていうのは。光源氏はセックスに走る。セックス抜きの愛、ってものがあるんじゃないかな?キミ?っていうとこに小説ってもののの出発点があるのかもしれませんよ。セックスじゃなくてココロが通じ合うこともあるかもしれん。この2つってクルクル交互に巡ってる気がします、ココロがやっぱ大事、っていう時代と結局セックス。っていう時代。50年台頃はココロ、60年台はセックス、70年台初めはココロ、80年台はセックス、世紀末はココロ、21世紀はセックスっていうふうに、大雑把にいうと。現代は明らかにセックス全盛の時代です、内面とか本質よりも、表面的でわかりやすい快楽、ディスコブーム、ってやつと同じサイクルなのかも。
小説の内容は、教育を受けた妻である細君が、夫の女遊びやら、実家の放蕩息子やらで板挟み、くっそー!離婚してやる!っていう話ですw 簡単にしすぎましたけど。しょうもないといえばしょうもない、身近なテーマ、泣き落としっていうのか。でも殺す、殺される、の英雄譚とは偉い違いです。
明治22年ですから、やれ尊皇である!攘夷である!!って吠えていた時代から20年ほどでここまで来たのですから、近代化はすごい速度で進んでる、とも言えるし、日本は世界から圧倒的に遅れてるともいえますよね、だってもう西洋ではドストエフスキーがカラマーゾフを出して、小説はもはや終着点まで来てるのですもん。江戸時代は平和でいい時代であった、とか色んな文化が生まれたというけど、300年間文明が沈滞して、完全に時代に取り残されたってのは事実だと思います。それは1600年頃に書かれたシェイクスピアが未だに、物語の原型としてどこでも見られるのに、江戸時代の文化のものってのが殆ど消えてしまったってことですね。UKIYOE! とか言いますけど、浮世絵作家なんてもういませんもの。演劇作家はまだいるもん。ま、でもこのへんは難しいことですね。江戸時代はサスティナブルな理想的な社会じゃった、とか電波なこと言うやつもいるだろうし。じゃあオマエエアコンなしでこの夏乗り切ってみろや、口先だけでしゃべりやがって、と思います、Iは。