2015年8月26日水曜日

1960 青春残酷物語  大島渚

 ある年代の人には大島渚ってすごい崇拝者がいますよね、大島渚は名作を作った、ヌーヴェル・ヴァーグだ、ゴダールなど世界中の監督に影響を与えたエトセトラ・・・


 この映画はいわゆるなんでしょう青少年の破滅物で、ありがちっちゃあありがちですね、ありがちというかこの映画が、その破滅物のベタを作ったのかもしれません。セックス、暴力、無軌道な青春、そいで最後は国家権力やらヤクザやらにボコられ全滅エンド。

 もし1960年にこれを見てたら、わぁ!なんて斬新な映画だ、って思ったかもしれませんが55年後の今見ると、ありがちやね~~、って気がするだけですわね。


1960年っていうと、新しい文化の始まり、学生運動熱い時代って感じですが、映画、はむしろ1960年、ほんとはもっと前(1956年)から斜陽の時代なんですね、落ち目の芸術、黒澤と入れ替わる感じで大島渚が出てきて、落ち目の映画を徹底的にぶっ壊したって感じでしょうか。


 まぁ一言で言うと面白くは無いです。Iはゴダールも嫌いですし・・・。ちゃんと仕事しなよって思う。Iは、ちゃんとロケハンやらセット、衣装、構図、プロットそういうのを細部までうんうんやりながら映画を作ったほうがいいと思いますね、即興的な演出と素人の演技で鮮烈でフレッシュな印象、といいますけれど・・・・下手すりゃただの手抜き、カネが無いことへの言い訳。


 実際この予算が無いってのが1960年台からの斜陽の映画の切実な問題なんですわね、そこからひねり出されたのが新しい映画のスタイル、というわけ。もっと潤沢な予算があればこういうふうに映画は作られなかったのではないですかね・・・。

 ある意味ハリウッドは身売りっていうか、志無しっていうか、映画なんて大衆のエンタメであればいいんだ、芸術性や社会へのメッセージなんているか、ってわけで、スピルバーグスタイルっていうのか、ただ映像として面白いってものになる、他の映画産業はすべてポシャる。ってことになったわけですね。


 ほんと唯一の例外はキューブリックくらいなものですね、キューブリックはその落ち目の映画産業で、どういう魔法かしらないけれど、巨額の予算で、別に大衆受けを狙ったわけでもない、すごい映画を作ってます、まぁユダヤ金融ネットワークの成せる技って感じでしょうか、キューブリックの図抜けた才能ってのもありますし。

 しかしほんとに大量の予算が使われて、細部まで徹底的に作りこまれてて、しかも俗受けじゃない映画ってものはほんと見なくなりました。まぁむちゃくちゃですわねそんなの、金儲けをする気じゃないが、巨額の予算を出せ、なんて、そんなの通るわけないもの。