2012年12月31日月曜日

一年の締め。 OP9 making 4 企画書

作成中のOP9の昔の企画書がありました。



「ドラマ、というのは他人の人生を生きてみるという事である。

 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ゲーデルによる、20世紀前半による理性の限界の証明、そしてドストエフスキー以後の
神へ頼る事の限界性、理性は神を信じるには優秀すぎて、宇宙を解き明かすには限界がある。
 
 人間は神を失い、理性への信頼も失い、ただ死に至る病を抱える。そうすると問題はなぜ自殺しないのかということ。
哲学が自殺せよと命じているのに生きているというのは、ただ誠実さが足りないということだ。精神と肉体が乖離している。
理性の終わりを経て哲学は行動なのだ・・・

 希望なしで、生きていく。進むべき道は無いのに生きていく、不条理な生、それはどのような生であるのか?
理性ではなく実践で生きてみるより他はない。感覚や、風や光や、世界、青空、宇宙の闇、他者の愛、友情・・・それを感じる事で生きることを知るしかない
コトバにならない人生を探求するより他にない。
よって海里はその実存主義的実践者として、現れる。

 医療が進化して、人間が半永久的に生きられるようになったとしても、人間を覆う虚無はなくなりはしない
死すべき病いは引き伸ばされただけで、そこに永久になる。必要なのは、病を治すことではなく病を持ちつつ生きる事なのだ

 ということでわかるように、テグジュペリ、カミュ、セリーヌと続く、フランス大戦時文学がライトモティーフにある、それに実存主義哲学史と
20世紀科学史が混じっている・・・っていう感じの作品になる予定。

 私達は何も信じないし、何も信じないということもやはり信じられないスタヴローギンで、イヴァンのような迷いすらない。
私たちはには希望もないし、未来もない、もちろん来世も地獄も天国もありはしない、ただこの今を生きているということの他には。
だから自殺するほうが正しいとはわかっているのだけれど、そう考えているとすれば今こうして生きているのは誠実でない
生きている限り、生きているということを肯定せねば」



 ちょっと現在の感じとは違いますが、だいたいはこの線でいきます。来年はほとんどこのOP9を作るのに専念することになるでしょうなぁ。今日intuos5も買ってきたし、バリバリやらねば。

 この作品は他のところで書いたとおもいますけど、ずーっと私の中に飼ってる初恋の人を今まで何度もやってみては失敗したけど、そのヒト、作品中では海里、を失う物語です。だから私の青春の総決算として、挑む予定です。私が青春を失うってことを肯定しなければいけないから。キャッチコピーも決まってます。

 失うコトの正しさを。

 海里は上にも書いてあるように、スタヴローギンなので、神を信じない、そして最期には死ななければならない重い十字架を背負っている、スタヴローギンの語源はスタヴロス、つまり十字架です。ドストはスタヴになんの救いも与えないで、少女をレイプして白痴にさせたという十字架、をかせて自殺させる、けれどスタヴはそれを罪に感じているのではなく(なぜなら彼は天国も地獄も神も信じてないのだから)、ただどうしようもなく退屈だから自殺するのだと言い残します。ドストは悪霊で、神を失った人間がどうなるかを描いた、そしてその犠牲者としてスタヴを作った。その預言はまさしく第二次大戦、その後のソ連崩壊までを見事に言い当てました。共産主義や社会主義にキリストの変わりは出来ないと。まったく見事に100年後の世界を言い当てました。そしてこれからもドストの預言通りならば、神を失った文明は長い時間をかけてゆっくりと崩壊し、野蛮へと帰っていくだろうと。今の世界を見てるとこれもかなりの精度で実現するだろうと思います。
 ヒトを殺すなといいます、けれどシリアは今年ずっと内戦状態、完全な戦争状態でした。もし私達が本当にヒトを殺してはいけない、というコトを倫理の公理として受け入れているならば、それを無視して内戦がどうにか決着するのを見て見ぬふりをしてるというのはおかしい。だから私たちはヒトを殺すな、という倫理すらも持ち得ない、倫理の根幹である、第一定理のようなそれを持ってないのに、その後のもっと高度な倫理を誰が持ち得るのでしょうか、私達は倫理を持ってない。目的がない。理由がない。
 
 海里は言います、続ける理由がない、と。

 理由がなくても生きてる限りは生きてるコトを肯定しなきゃいけない、失うコトの正しさを、希望が無くても夢を描く勇気を、ユキは探す物語です。

 

  ともかく今年は下調べとかプロット作成とかで終わってしまってあんまり作品は作れなかったですね。まぁそういう時もあります。今年の採点は・・・・50点ってとこですかね。