2014年7月27日日曜日

1960 日本の夜と霧 大島渚

 大島渚っていうと海外ではニューシネマ運動の先鋭ってとこなんですけど、アメリカと日本ではやっぱ立場が違いますよね。アメリカのニューシネマっていうのは娯楽映画ばかり作ってきたハリウッドへのアンチとしてシリアスでダークな映画が作られたわけですけど、もともと日本には娯楽大作を作る予算も無かったわけで、戦後の日本映画というのは、始めっからシリアスで重たいテーマの映画ばっかりでした、というかつまり、55年頃まで、黒澤明時代、映画の黄金時代でありまして、別にそれを否定する必要もなかった、けど56年頃から、日本は朝鮮特需で物質的豊かさこそすべて!っていう調子になっていったので、映画、も完全に破綻してしまいました。それはもう完全に破綻というか映画会社自体がもう映画を作るのを投げたって感じでした。




 で、その状況に対して大島渚とか増村保造みたいな、なんていうのか・・・・タブーをこそ切り拓く、つまりはエログロ路線になったって気が、Iはします、Iが勝手にそう思ってるのかも。ともかく黒澤明の時代があったわけで、それに対してどうしたらいいのかってのがわかんないですよね。七人の侍、生きる、を超えるような作品を一日二日で作れるわけないもの。だから黒澤のやってこなかったテーマ、エロ、性愛、政治、ってものがテーマになった、そうせぜるをえなかったって感じかなぁとも思います、黒澤映画ってのは政治的なテーマってものはほとんど皆無ですから。もちろんもっとおーきなテーマでの政治批判はありますけどね、大企業の汚職と戦うみたいなのもあったし(悪いやつほど・・・)、生き物の記録でアンチ原子力みたいなのもありましたけど、実際に行動はしません。だから黒澤映画っぽくない映画、ってことで斬新なカット割りとか、奇妙な演出とか、きついテーマ選びをしていった結果ニューシネマとたまたま路線が被ったッて感じなんじゃなかろうかと思います。けどやっぱりそれって、一番自然なやり方をあえて外してるわけで、なんでしょう・・・、やっぱ本質からずれてんじゃないのかなーと思いますね。



 でも決して悪い映画じゃない、Iは大島渚のファンでもなんでもなくてちょこちょこしか見てないので偉そうなことは言えませんけど、他のレヴューとかを見るとキビシーですね、セリフが詰まったり飛んだりしてるって、でもわざとそうしてカットを少なくした長回しをして俳優たちの緊迫感をつくってるのでしょう、それにコトバにつまってるのだってそれがリアリティです、だって現実では、映画みたいな長台詞をしゃべることなんてないし、それもかまないですらすらしゃべるってこともありえない。だからコトバをのんだりつまったりしない、いわゆる普通の映画、のほうが不自然極まりないのですよね。でも結婚式から次々と事実がわかっていくっていう映画の作り方はまさに「悪い奴ほどよく眠る」とかぶってしまってるなって気がしました。
 津川雅彦は若い頃はこんな精悍なイケでシリアスな演技をするヒトだったんですねー、今は想像出来ません。
 

 ただほんとこの50、60年代の映画ってのはテレビには出てきませんね。自主規制ってやつですか・・