2014年7月7日月曜日
1985 バック・トゥ・ザ・フューチャー
スピルバーグとゼメキスのコンビが続いたわけですね、ミライから戻ってきましたがw
知ってますかこの映画、タイムマシーンで30年前に戻った少年が、ミライへと頑張って帰ってくるっていうのw 何千回も話しを聴いたけれどI初めてまともに見ましたね。
けれど予算は20億ですから、現代の映画ってのがよっぽどカネがかかるようになったってのがわかるというか、それほどスピルバーグとかルーカスの使える金の規模が大きくなったというわけですね。
よく考えるとおよそ30年前の映画なんですねー、過去に行く、というのはあるものを再現すればいいので簡単です、けどミライを描くのは予想と嘘ばっかりなので難しい。
けどIは時代劇ものってのが嫌いだし、(それって結局嘘じゃんって思うのですよね)死んだ人間がよみがえるものは嫌いだとこの前書きました、タイムマシンもだいたいにおいて、死んだ人間をよみがえらそうってするものです、それが出来なきゃ、タイムマシンなんて何の意味もないしね。
けどそれってやっぱり禁じ手です、禁じ手を破って新しい表現が生まれるっていう禁じ手とは違う種類の禁じ手、それって、映画のために本当にコドモを殺しちゃうみたいな禁じ手と同じことです。けどこれはコメディであって、エンタメ作品でして、そんな真剣に受け取るようなものじゃないからいいんでしょうね。コンタクトはもっとシリアスな作品だったからどーかなー、と思ったのですけど。
こんなファミリーが夏休みにとりあえず日々のコトを忘れて楽しもうみたいな映画はなんでもありです。
最近のIはすごい迷ってて、昔っていうかここ数年は、絶対的に現代的であること、リアリティがあること、が作品にとっては一番大事なんだと思ってましたけど、果たしてそれもどうなんだろう、すべてを忘れさせてやるってのも、芸術のするべきことなのかもしらん、リアリズムVS娯楽、っていう尽きることない論争ですね。いわゆる映画祭ってやつはリアリズムこそが映画、けれど大衆としては娯楽こそが映画、とはっきりくっきり分かれてる。
実際、普通の一般人には、そんな映画的な瞬間というのは訪れない、ひたすら退屈な人生が待っているわけで、何もかも忘れさせてそれで幸せに出来るんだったらそれがいいのかもしれん、やれ夢を捨てるな、大きな希望を持て、社会を変革せよ、なんてのは左巻きの独善的なインテリ的トップダウンなのかもしらん。
けど正解はないんですよね、んー、どっちも必要、けどIは今だんだんと、忘却、のほうが幸せなのかもって思ったりしています
プロメテウスのコトバ Iは人間に盲目という幸福を与えた、人間はミライを見えないそれが人間の幸福となるだろう
ってわけです。
特に今みたいなどうせだいたいの人間は不幸になるって社会では・・・・でもだからこそ社会と戦うための作品が欲しいのかも、やっぱわかんないや。