2013年11月17日日曜日

MAKING 126 / 電子書籍のフォーマット  ハイパーノベル マンガ小説  デジタルコミック マルチメディアブック サンプル






  

 4枚まい。


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 そんなつまんないギャグよりも今日は内容盛りだくさんです。

 一日ちょと考えて電子書籍といっても音楽と映像と小説などのマルチメディアブックがどういうものにしたらいいのだろうな~ってのを模索してみました。PEREAT MUNDUSという作品はこのフォーマットでいきますが、フォーマットがまだ未知のものなので名前がありません。以下考察を書きました。まだ未完成。




      映画のあとのフォーマットへ。


実施編
ハイパーノベルのフォーマット考察

 ・HTML   
番汎用性がありそうだが、見た目が固く、自由度が少ない。フォントも少ないし、ブラウザによって変わってしまう。

・interactive PDF
これをINDESIGNで使ってレイアウトして出すのが一番マシのようです、Psとの連携ももちろん良い。ただ操作を覚えるのがしんどいしソフトが桁外れに高い。ACROBATもあったほうがいいし・・・。ACROBATだけでPDFを作成するのは最悪です。使いずらすぎ。

・EPUBは最悪。おそらくもうすぐ消える。レイアウトの自由度がまったくないし、HTMLと何が違うのかがよくわかりません。仕様が特殊すぎる。HTMLが断然有利。
 
・音などマルチメディアが無い場合はJPEG連番が一番便利で何より安定している、化けにくい、劣化も少ない。これを拒否するのはどうにかカネが欲しい企業だけ。 (マンガ)

・テクストと絵だけの小説ならばリッチテクストで十分。ややこしいのはわかりずらいだけ。ただのテクストははしおりが出来ないし、ルビが読みづらいこと山のごとし。


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 理論編
・絵物語、マンガノベル、挿絵をもっと有効に使った小説・・・オトナ向けでインテリ向け・・


小説に挿絵を使いまくるホームズスタイルが、厚みのあるストーリー展開にはいいのでは。マンガや映画はどうも内容がペラペラになりがちである。

 画が持たないというように長い説明、詳しい説明や長いモノローグ、ダイアローグには画は向いていない。

画には時間が含まれているから。


 理論化しよう、小説には何が出来る?

 理論化
映画が1958頃に、テレビにその力を奪われて時代のメディアであることをやめた。テレビはこれもはっきりと1996年頃に、その役目を終えた。規制が強まり、スポンサーがいなくなり、創造的な仕事の場では無くなった。テレビは告知の場であったり、中継するだけのもので、何かを作る場所ではなくなった。
 
 1980年頃にビデオゲームが新たな時代のメディアとなり、それはオンラインゲームとして進歩して現代2010当たりでは最も時代的なメディアである。予算、市場、プロジェクトの規模で映画の何倍もの規模であるし。

  電子書籍は現在ではまったくシェアを獲得していないが、これは新しいメディアである。既存の本をただデジタル化するものはまったく何も生み出していない(それを電子書籍というのが非常に混乱をまねく、それはただのスキャンしたアナログの本である)、本に音と映像を加えられるようになったので、新しい表現が可能になる。今までの本と異なるこちらを電子書籍と呼ぶべき。でも混乱するので新しい名前が必要。
 個人的にハイパーノベルってのがすわりがいいきがする。HNV、っていう略称もすわりいがいい。デジタルマンガ、デジタルコミック、EBOOKなどは何を表してるのか不明。ハイパーテクストを利用した小説であるってことを明示すべき。
 
 それは映画なんじゃないかというとこれは違っていて。映画は実は万能のメディアではない。小説のすべてを映画は表現出来るわけではない。小説を映画にすると失われる領域がある。
 特にそれが顕著なのは

1、インローグ つまり心理描写
2、コトバ、による自由想起 (コトバによって想起されるイメージは個人によって異なる、例えば絶世の美女、をコトバで与えてイメージさせるのと、映像にするのでは違う)、コトバ、自体の音的響きや美しさも存在する。

3、フクザツな概念の説明 
 絵、視覚、には動画であれ静止画であれ 時間 が存在し、その情報量は限定される。一定以上にフクザツな概念を、絵で表現するのは難しい。非常に長い映画、は映画として成立していない。(資本論を映画で説明出来ない)映画やマンガは、小説よりも、概念的情報量が少ない。知識が少ないといえばいいのか。理性よりも感性に訴えるものになりがちである。

4、話法
 視覚では話法が失われる、つまり一人称、三人称、神様視点。
映像の話法はドキュメンタリーによる、撮影者の存在が与えられる場合と、フィクションによる、撮影者がタテマエではいないとされる場合。けれど基本的に撮影者がしゃべるのはNGとなっている、理由はない。

5、時間の伸縮性
 小説では時間が、長くも短くも出来る。映像では早回しにしてもスローにしても、時間を曲げる、というようなことはほとんど出来ない。小説では時間を概念として扱えるが、絵では時間は物質として扱わねばならない。
(たとえば小説では
「Iはそれを食べたよ」
(ほんとは食べてないけどね)
というダイアローグとインローグを時間を停止して出来る。映画ではそれは出来ない。インローグを音声を変えてダブラしても、時間が流れてしまう、実はマンガでもそうである)
 これも重要な点ですが、映画では、時間が現実世界と同じスピードで流れているという暗黙の了解があるけれど、これは必然ではない。フィルムは速いし、アニメーションもだいたい実時間よりも時間の流れが速い。それが実写がもたついて見える理由である。






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 そしてサンプルを作ってみました、ハイパーノベルはこんな感じになるだろうってものです。つってもたったの1ページですが。

https://drive.google.com/file/d/0B9bHZ7qFblqhNmJjWGczRHNtekU/edit?usp=sharing

 これは静止画を使っているけれど動画も使えます。pdfはリーダーは無料です。タブレットはわけのわからんタブレットOSはクズです。普通のWINなどが動くタブレットを勧める。スマホは死ねw
APPLEはITUNESとリンクさせるのを止めない限り絶対に使わない。まったく意味なしです。