2013年3月28日木曜日

悪い奴ほどよく眠る 1960 黒澤明

  黒澤映画見よう、イベントがついに1年二ヶ月ぶりに再始動w

 悪いやつ・・・ってのは、黒澤ってのは、ネアカだからどんなに悲惨な映画を作っても、どういうわけか
悲惨にならない。受け入れる人を選ぶようなダークな映画を作らない(作れない)人間だって思うんですけど
 このBadだけはAKらしくない退廃的ムードが出てる作品だと思います。ふとこの映画のワンシーンを思い出すことがあるんですけど、あれ?本当にあれってAKの映画だっけ?って不思議に思う、特に後半の志村を監禁する防空壕の成れの果てみたいな場面が、どうも、なんかどこかの記憶にピッケルを打ち込んだみたいに忘れがたいものです。

 バキっというとこれは失敗作です。でもいい失敗作には違いない。
 どこが失敗かっていうとなんかストーリーが無茶苦茶なんですよね、私生児として戦後の焼け野原で育った三船が父親の敵を打つために政財界と戦うって話しですけど、私生児である三船は親父とはほとんど会ったこともないんですよ?焼け野原で育った私生児がなんでそんなに親が自殺に追い込まれたくらいで、自分の人生をなげうってまで戦うのか
ってのがさっぱりわかんない。たぶん演出も、三船もわかってないでしょう。
 AKなのかMIFUNEなのかってこともありますよね、AKの演出を私達は見たいのか、三船の演技を楽しみにしてるのか
どっちなのかがわかんない。前者なら三船はスター性が凄まじすぎて、彼に視線が釘付けになって映画自体のバランスがおかしくなっている(特にこの次の時代劇二作は映画としては最低だとIは思います)。三船が見たいのであれば
ストーリーが複雑すぎるし、長すぎるう上に、説明ゼリフが多いし、あざとい気がする。
 
 AKの演出ってのは、Iはやっぱ生きるとか七人の侍とか、もっといえばわが青春に悔なしみたいな、ストレートさにあると思います、ズバッと言いたいことを直線的に伝える。映画ってのは実は短いから、2時間で何かを伝えるには
直線を通ったほうがいいに決まってる。小説や、長編マンガではないのだから・・・・なんか小説っぽい方向に行って
しまってるのかもしれないですね、映画に高尚なものをとりいれようとして。それが逆にゾクアクになってしまってる
んでしょうか・・・ともかくこの映画にはなんか絶望的に何かが欠けています、バッドエンドがAKらしくないとかそういうことでは全くなくて。それがなんなのかわからないけれど・・・あえていうならば、何か・・・志が無いって気がする・・・、理由が無いって気がする、映画を作る。


 どこからAKが狂ってしまったのかわからないけれど、やっぱりだんだんと何かが欠けてきている気がしてならないのです。特に赤ひげの後、東宝をクビになってからは、まったくダメになってしまった。
(東宝はAKをダメにした張本人なのに、そして最期はクビにしたくせに、映画史に残る偉業とかほざいて、まだAK作品の著作権で稼ごうとしてるのはまぁ、XXXXXXしたくなりますね。映画産業の保護者みたいな面しやがってXXXXXXXXXXXXXXXじゃねぇかってねw)
なんでAKのような人がこんな映画作るんだろう、やっぱ老いぼれたらどんな人間でもダメになるのか?と思ってしまいます。でもベートーヴェンやドストエフスキーは死ぬ直前までギリギリと鋭利になっていったのに・・・

 どっからAKは狂ってしまったのか、というのは駿さんに言わせると次作の用心棒、から。I的には・・・やっぱ7人
じゃないですか、あれが完成してしまってからAK映画から・・・魂が抜けてしまった気がする・・・あの三船が死んだ
シーンを撮ってしまってから、AKは本当に死んだ。 そして三船も死んだのかもしれない。
 無茶なコトいいますけど、Iは俳優は死ぬシーンって人生で一回しか演じちゃいけないものだと思いますね。さっき
映画で死んだのに、すぐに次の映画でピンピンしてたら、萎えてしまうもの。もっと本音を言えば本当に死んでほしい。それが映画中毒のビョーキでしょうね、映画中毒というか・・・芸術中毒・・・?
 命よりも大事なものはあるんです、たぶん・・・