2013年10月4日金曜日

random review Simone Weil liberty and opression シモーヌ・ヴェイユ 抑圧と自由 1934

  整理してませんがまとめってことで。I自身のノートもあります(*がついてるもの)



 

現代はあらゆる希望が絶たれた時代である。

 科学は進歩しても、一般人は科学の成果を盲目的に受け取るだけで、それを利用することも参加することもできない。科学は権力によって独占されている。それは教育の不備ではなく科学の本質である、インテリでさえ、科学の独占の弊害をまぬがれない。

*社会とはそもそも抑圧である、社会と抑圧は同義であって、社会に対して自由を求めるのは矛盾である。抑圧の無い社会が実現出来るのなら、そもそも社会、が必要ではなく、個人が国家のようにふるまうことが出来る。それは個人がリセットボタンくらすの武力を持つことによって可能だが、そのような社会はあらゆる個人が最高レベルのニンゲンたちで構成されていない限り即座に滅びる。
 逆に言えば、ある一定の技術レベル以上が使用出来る社会は天才だけで構成される必要がある。核融合、エテルナ技術、はまさにそれ。


1919~のドイツ情勢
 破産から植民地なしの資本主義国としてどのように国家を運営していくかという窮地。
 それには経済の合理化しかない=カルテル、トラスト、独占(つまり産業の軍国化)に加えて労働搾取と失業者の群れ。弱者切り捨て。(これもつまり国家の軍隊化)
 社会保障削減、増税、国益優先政策=右派政策

 *産業の合理化、成長の為の戦力とはつまりそれ。独占企業と、弱者を殺すコト。それを言い換えたものが経済成長政策、あらゆる経済誌が勧めるもの。

 29~恐慌。 失業者の兵士への変換。兵隊のファシストへの転換

 すでに選択肢は2つしか残されていない、革命か、ファシズムか・・
 


*行動は、常に死罪である。行動するということは死罪を覚悟するということ、国家は、権力はあらゆる行動を禁止する。行動は禁止されている。行動しない、という批判者はそれを無視している。行動とは命を捨てるということである。


・ヒトラーとは組織的虐殺とすべての自由とすべての文化の圧殺を意味する。

・ファシズムはマルクス主義からは導けない現象。
*ファシズムはカトリシズムである  DOCT

・アメリカのテクノクラシー(科学技術独裁、天才独裁)

・自然発生的労働者の運動は無力であり(パリ・コミューン)、組織された労働者は新たな抑圧の装置である(ソ連)。
  
  闘争を続けるべきか? 革命は無駄であり闘争も無駄である。反革命・・

・戦争は平和時の政策の別の手段による継続にすぎない
              ――クラウゼヴィッツ

・戦争をそれ自体として否定する真摯な社会学者はいない。しかし一般には、支持を集めたり宣伝のために、虚偽が選択され、無根拠で無意味な平和論を左派は展開する
 *無根拠な平和論は、裏をかえせば無根拠なファシズムと同じである。ただ丸呑みで教えられたコトをしゃべっているだけで、ゼッタイ平和主義者をゼッタイ的ヒトラー支持者に変えることも、過激派宗教テロリストに変えることも至極用意である。つまり彼らは考える力を持ってないし、考える意思もない。

・ファシズムを打ち砕くのは力によって虐殺するしかなく、平和主義はただの惰性の力で混乱以外のなんでもない。


・歴史はどんどん強い選択を市民に強いる。国家による自由の完全な抑圧か、国家すべてへの終わりなき闘争か。
 戦争状態ではそれがもっと先鋭化し、軍事への妨害(テロ)か、虐殺への協力か、である。

・ブルジョア国家のくわだてる戦争は権力を独裁と虐殺に変えることしかできない。

・真の的は目の前の敵(他国の失業者)ではなく、ワレワレの保護者であると称して、人々を奴隷にしている者達である。

・権力闘争が存在し、勝利の要因が軍事産業である状態では、永久に搾取は起こる(そして搾取しない国家は奴隷にされる)

*海里はすべての聡明な人がそうであるように反革命論者である。
 真面目に考えれば方法は、すべてを滅ぼすか、すべてを見捨てるか、である。どちらにしろ、人類の公平で平等な社会などという希望はまったく実現不可能で、すぐに捨て去るべきである。


・資本主義は道義的に破棄されるのではなく、さらなる進歩と発展の為に時代遅れになったら破棄されるシステムの1つにすぎない。
 革命とは社会の生産力を高める以外の社会を倒置させることは出来ない。(革命は生産力の解放であって、抑圧階級の解放ではない)正義や道徳ではなく生産力(軍事力)の優れた社会のシステムが常に選択されるというだけである。

*マルクスは生産力がいつか無限大となり、労働がほとんど必要なくなれば分配が
なされると考えた。しかし生産が無限になっても分配は行われない。それはアダム・スミスの考えといっしょである。いつか善意による分配がなされるだろう、それはなされない。
 なぜならそれは生産力を高めないからである。むしろ労働が必要なくなれば、役に立たないニンゲンをすべて殺すほうが無駄が無い。彼らに平等に分配する理由がない。
 ニンゲンには(一般として)善意は無い。まったくそれを見誤っている、ヴェイユですらそれをわざと無視している。善意は強制的に作られねばならない。


 「土地はあなたの為に呪われてしまった・・・(人生というただの地獄を経て)あなたは土に帰る、土くれは土へと帰らねばならない」
                     ――GENESIS



・工場で働いた後のヴェイユのコトバ
「哲学的信念には何の変更もないが、ある種の明るさをまったく失ってしまった」


・宗教は全て生き物を神の道具とする(抑圧の形態である)

・平等な分配によって社会の公平は現在の技術(核以前)でも十分出来る。だがそれにはすべての国家が資本主義的生産、と武力を同時に破棄しなければならない。これは夢物語である。 

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 PEREATの社会の仕組み
 *平等な分配は偶然にまかせていては行われない。
それには一度世界を完全に滅ぼして、天才だけの社会を再編成しなければならない。
その社会のディテールはどうでもいいが、根幹として
・その社会はただひとつの社会であって、敵対する社会を持たず、すべての武器は破棄される。
・完全な、デス、バース・コントロール、人口制限が行われ、天才、だけの社会であること。新たな世代も愚劣である限り処分される。あるいは、寿命を伸ばし、新たな世代、を産まない。
・持続可能で環境と調和する、サスティナブルの社会であること。
・凍結技術の解放がされる、これまでのあらゆる社会よりも、生産性、宇宙探検に特化した社会である(核融合、エテルナ、ソーラーフード、ロボットレイバー)


 細則は規定しないでも、知能の高いニンゲンだけなので、ディテールは不要である。紳士協定で十分。
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*WEILは技術、生産性には限界があると感じていたが、これは間違いであることが、核爆弾によって証明される。生産性、エネルギーは無尽蔵足りうる。だがそうなっても分配はなされない。分配は生産ではなく、個々人の武力に依存する。


・国家というニンゲン粉砕機は誰の手にゆだねられても、同じコトをする。(国家自体にニンゲン破壊が組み込まれている、指導者の問題ではない)


・すべての勝利は相手の全滅をしないので、本質的に敗北を含んでいる。しかし殲滅は権力の低下を招くので、権力は本質的矛盾を含んでいる(だから幻想が必要となる)
 1人のニンゲンが群集すべてよりも協力な武力を持つのでない限り。
*現代はそれが可能なので、完全な権力、が可能である。


*飽和経済の本質は、危機を生み出し、その解決策を独占的に販売すること。PEREATシステム、とその防止のルーエルはまさにそれ、マッチポンプこそ、錬金術である・・・・、経済はループであって、終わりなき徒労と無駄遣いにその本質がある。それが無い経済は滅びる。


・原初状態では人は自然に隷属して自然をコントロール出来るようになるとその社会に隷属することになり、ニンゲンは常に隷属する運命にある

「千の腕にも1つの精神で十分である」
          ――ファウスト
  *必要なのは精神ではなくて、力であるということ
 
 「隷属はそれを奴隷に愛させるほどにニンゲンの知能を損なう」
               オーギュスト・コント
 
・強力な手段は抑圧的で、穏便な手段は効果が無い。弱者は単体ではまったくの無力で、しかしそれが組織されると、それが倒そうとする組織とまったく同じ抑圧をもたらす。



ヴェイユの解決策
・すべての個人が全知となり、利他的な天才だけの集団になることでユートピアは可能になる(それがあまりにも夢物語だとしてもそういう理想を描くことが大切だ)

 *WEILはかなり誠意と勇気を持ってマルクスを批判して、反革命の理論をきちんと導いているけれど、ではどうするのか、という段になるとまったくの心理学者で具体的には何の内容もなくて、上の結論は結局、すべてのニンゲンはイエス・キリストになればいい、というキリスト教的結論、まったく実現されないであろう、ただ可能であるだけの希望、ただの信仰とも言えるものを繰り返すだけである。そして実際にWEILはキリスト化したし。同じように反革命の理論化であるドストとまったく同じ道筋をたどった。
 Iは断言できるけれど、すべてのニンゲンが、イエス・キリストのような全知で、死を受け入れ、完全に利他的なニンゲンであるような社会は何もしないでは絶対に訪れない。それを信じてる奴は気が狂ってるか、ただ、恣意的にセカイを直視しないで、考えるコトを止めてるのと同じである。
 但し!そういう社会を実現する手段が無いわけではなくその為の方法はある。ともかく何もしないでそういう社会が自然に訪れることがありえない。

 WEILも相当程度誠意があるけど実は嘘つきで、明らかに、知らないフリをしているか、実際には毛嫌いをして読まなかったのか、ニーチェに始まる、価値の普遍性批判。相対価値論をまったく無視している。知らないわけは無いのである。ニーチェの善悪の彼岸は19世紀の作品だし、この時代にはニーチェの本は確実に出回っていた。20世紀論理学や相対論は1905年にはもう出ているのである、これが書かれたのは1934年である、明らかに意図的に無視したとしか考えられないし、相対論的考えを科学と技術を重視すると口ではいいつつまったく理解できていない。
 善、とか悪、人間の尊厳、自由の価値、などという、絶対価値がさもあるようにふるまっている、これは優しさや正義感ではなくて、欺瞞である。

 社会には悪、があると冒頭から言っているわけで、いきなり間違っている。
社会には悪、は無い。個人が悪と思うものがあるにしても、悪かどうかは個人の価値観に依存する。ファシズムも悪、ではない。ファシズムを悪と思う人間がいるというだけである。ファシズムを善とする人間だっている。
 人類を全滅させたら悪だろうか?
誰もそれは悪と判断する人間はいないのに。人間がいなくなってもその人類を全滅させたものと悪、や罪が残るのだろうか?そんなことははっきり言ってまったくありえないし、科学の根幹。自然世界には物質だけが存在する、というのを全く無視して霊魂論から始めているのである。こんなものは科学でもなんでもない。

 WEILはそもそものはじめから、宗教的な絶対価値にもとづいている。ヴェイユは逆行したといわれるけれど、まったく最初から最後まで、キリスト者であったといえるのだと思う。
 ただそれを認めるか認めないかだけである。


 そしてWEILは本当に誠実で、世界をちゃんと見つめる勇気があったなら、世界にはまったく何の希望もないので自殺するのが一番早いと、言うべきだった。

 実際WEILは自殺したので、WEILはやはり誠実な人間だったとIは思う。この時点ではその結論を出せていないだけなのかもしれない。
 WEILが自殺したことをもって、Iは彼女を尊敬します。自分の考えることをちゃんと行動に移せる勇気を称えるから。たとえ、その考えがまったくIとは異なっていても。自分自身で考え、行動、したということだけでも、あらゆる人間の中でも最高の価値を与えられるべきだと思います。