Iは学生の頃にドストの全集は全部(書簡とかはぬいて)読んだと思ってたんですが、太宰の小説で虐げられた人々に言及してるところがあるのですけど、ネリーというのがどういう人物だったかちっとも思い出せなかったのです。
あれー?と思って読みなおしてみると、どうも初見くさい。たぶん全集でそこだけ貸し出されていて、しゃあないあとで読もうと思ってそのまま通りすぎてしまったようです。(でもこんな純文学は常に誰にも貸し出されていなかったのだけどなー?某新宿のW大学の中央図書館では・・人気なくって。だいたい3タイプなんですよね大学生、もう一生分遊んでやる!セックスも恋愛もしまくってやる!っていうのがひとつ(だいたい留年、中退組)、シューカツに向けてやれインターンだのイベントだのに顔を出す大学なんて通過点リアリストタイプ、そして民間企業なんてもう駄目だ、食いつぶしが聞くのは資格か公務員だ、というガリ勉資格、公務員試験対策グループ、そいでもう一つ、ほんの一握りのまるで実生活に役立たないことに熱中してる、学問バカ。Iは最後のそれで、ふつーにIは大学で勉強してしまいました、といっても文学と哲学ばっかり、大学にマジに勉強しにくるやつはとんでもないキチガイなんですよね、その中のブルジョアは大学院に行き、ワーキングクラスは就職もせず、資格もとらず、若き芸術家として、屋根裏の安アパート(か地下の穴蔵)に閉じこもり貧困と二人三脚で若死にするのですね。けれどIはその最後のグループ以外はどっか根本的なところが欠落したアホだと思っていますけど・・・、いつもI最初の破滅型以外の人には(破滅型はIは好きです)あなたがたはまるで人生は永遠に続くみたいに考えているね、人間はすぐに死ぬんだぜ?memento moli 死を忘れるな と嫌味を言ってたものです。弁護士や国家公務員のキャリアを目指すようなやつよりも、押入れで大麻を栽培してるスーフリの奴らのほうがIはまともだと思ったけどな・・・・)
虐げられた人々は、後期5大長編の一つ前の、シベリア帰りのDが最初に出した長編です。非常にIが思うには未成年に近い。
というよりは初の長編だと思います、貧しき・・、ダブル、とかは全部中編くらいの長さですから、事実上初の長編への挑戦です・・・
そして当時に大人気になったというのですけど、Iにはそれがちっとも理解できない。それはこの作品が駄作だというのでは全然なくて、一般の大衆に理解できるようなレベルの小説じゃないと思うから。あまりにも読者へのレベルが高い小説です、これが流行るなんて黄金期のロシア人たちはどんだけ知的レベルが高いオーディエンスを形成してたんだ?って思います。
小説の構成はDお得意の一人称視点による、大長編なのですが、その組立もものすごい複雑だし、筋の取り方もひじょーーーにトリッキーで、普通の読者なら、この作品は一体何がいいたいのかちっともわからぬ・・ってすぐにやめちゃうと思います。
マジでこのクラスの作品が大衆に人気が出るってのがほんとに信じられない、急に小学生がみんな量子力学を夢中になって話してるみたいな違和感です。
実は邦題はかなりの意訳でして
ロシア語直訳だと 恥辱と汚辱 というような感じで、このタイトルのつけかたはもちろん 罪と罰 に踏襲されておるわけです。太宰治はドストに強烈な影響を受けた作家で、たぶん日本の若者のほとんどは、漱石→太宰→ドストっていうベクトルで読んでいくことになる・・・
内容もまたこれは非常に込み入ってます、まず一人称の私、が本当にドスト本人っていうノンフィクションのテイストで書かれていて、自分の貧しき・・が出版された当時のこと、として作家本人が描くというスタイルなので、どこまでがフィクションなのかがわからないという、フェイクドキュメンタリーの手法を用いている、ひじょーにモダンなやり口です。というかぶっ飛んでいる感じです、導入からしてまったく一体なんの話かわからない、徘徊する老人に興味を抱いたのであとをつけてみる、というポーみたいな導入で、そっからまぁどえらい長編が始まるのです・・・・
WはDのその後の活躍を知ってるから、これは完成期への幕開けだと言えるわけですけど、普通にこれだけの作品だったらもっと圧倒的に評価されないといけないでしょうね。ともかく2流の作家が一生かかっても書けないような作品が、構造が破綻した失敗作と言われるんだからえらい話ですわ。
文庫本の最後に解説があるけど、こいつもちっともわかってないな・・・って事を書いてますね、それほどこの作品はフクザツです。でもちょっと深く読めば、これは、感傷的だとセンチメンタルだとかいうのを、裏にとって、そのセンチメンタルの本質は何なのか?ってのをついてる作品なんですね。人が、感傷的であったり、センチメンタルであったり、一見、しょうもない愁嘆場を演じてみせる、その本当の理由をえぐってみせるっていうテーマなんです。
ヴァルコフスキー(公爵っていうとわかりずらいですね、プリンスです、あるいはクニャージ)が言うセリフをちゃんと理解すれば、これが抒情的だとか、センチメンタルだという作品じゃないとわかりそうなものですけどね
「・・とにもかくにも(Iは理想を捨て去ることによって)、青酸カリを飲まないですんだのを幸福に思っていますよ」
「青酸カリのほうがマシです」
MEMO
・前後の見境もなく誰かを愛することの快楽と、その愛情によって相手を苦しめる快楽をナターシャは味わっていた・・・
・ポリチネッラ 道化
ボノミ 愚直 Fr
・道徳というのは快適さと同じようなもので、道徳や礼儀は快適さを追求するために作られたものでしてね・・・
・(現代の人は)哲学に入れあげて、普通のノーマルな人間のすべてを破壊し尽くして、結局はすべては0だということになり、青酸カリこそが、すべてであると宣言する。それは強烈な絶望で、ハムレットであり、凡人には全然わからぬ壮麗なものだ・・
・美徳が美徳であればあるだけ、そのエゴイズムも大きくなる・・
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Ep14 からずっとコミカル色が強くなって、車はいつのまにかクラシックカーから乗用車FIAT500になり、峰不二子はなんかフレンチボブみたいなショートカットになります。
ベンツからFIATに変えられたのは、描くのが面倒で作画が悪くなるからという理由だったようですねw たぶん峰不二子のロングも描きづらいからばっさりいかれてしまいました。さすがスターリニストですねw
Iはでもロングよりもショートのほうがいいとおもふ・・・でもロングが好きな人って本当に多いようですな、特に♂には、Iにはあまりわからぬ。といいつつ、自分の描く作品では主人公はロングにしがちですねー・・・・、なんか意志の強さを感じられるというか、ショートで元気だとアホっぽくなってしまう・・、ロングで明るい性格だと、バランスが良いのですね。ショートで根暗なのも良い。ロングのネクラだとキャラがつきすぎる・・・Iのただの性癖かもしんないけど、髪をくくっている耳の上の髪の流れの感じが嫌いなんです・・なんだろう・・・臭そうな気がしてw
でもこのころでもまだ駿作画の髪はカチカチなんですね。髪が風で流れるようになるのはやっぱナウシカからなんですね。クラリスの髪もカチカチだった気がする・・・・そっから駿作品は風の描写がやたらと増えていくわけです・・・・
EP20 まではちょっと精細を欠いてるきがしますね、なんとなく、なんでこの仕事やってんだっけ?ってのが製作陣に見え隠れ、中だるみってやつですが、21はもう思い切って駿さんの趣味全開で無垢な少女、優しいルパン、論理無視のむちゃくちゃなアクションでなんかいい感じになりました、もう打ち切りも決まったしやりたいことやろうぜ!なんでしょうねw
最終話は作画数も三倍くらいにして、とにかく徹夜だ、気合で仕上げるぞ!ってのがびしびし伝わってくる、アニメーターが何人か病院送りにされたのもねw
でもなんだかんだいって、あの最初の演出グループが首になって、Aプロが入ってきて、どうすんだおい!ごちゃごちゃごちゃ!!ってなってる7~13話くらいが一番、なんか良いという気がします、後半はあまりにも、駿色が強すぎます。
たぶん一緒にやったら絶対に肌が合わないような演出が、妙な形でコラボして、奇跡的に出来がいいのが生まれるってことはあるものです、レノン&マッカートニー ですね。破局は見えてるけど、首の皮一枚のパートナーみたいなのが新鮮でいいのですよね。
でも最終話の、夢の島で四人が立つっていう構図の取り方とかはさすがだなぁー、すげぇ写真になってるもの。
不二子がふつーのカジュアルなトレーナーを着てるのが面白いのですけどw でもそれじゃあ普通の素直でかわいい女の子で台無しなんですけどね、これもやっぱり持たないやり方なんです、第二期で演出が変わるのも当然で、もっと長くやっても駄目だったでしょうね。
というわけで映画でもやろーぜ!4ヶ月徹夜しよーぜ!ってことでカリオストロなんですが、死ぬね、そんなの続けてたら♪
でも羨ましいですね、死のうぜ!っていってなんかチームが作れるのは・・・