Roahld dahl boy 1984
――世界中の作家のほとんどは酒を飲み過ぎる しかし、彼は自分自身に信念と希望と勇気を与えるためにそうするのだ。作家になろうとするニンゲンは愚かものである。作家の特権は精神の絶対的自由だけである、それだけを求めて作家は作家になるのだろう
日本ではダールの知名度は劇的に低い、というより文字の作家ってものは海外に出るのにかなり障害があるようです。
漱石や太宰は海外では相当な日本マニアしか知らないように。宮﨑駿のほうがよっぽど有名でしょう、AKはもっと有名。映像ってのは文字、に頼らないから。ダールのポジションは芥川くらい向こうでは有名です。というと印象が湧くのではないでしょうか、チャーリーとチョコレート工場もダールの作品で(チキチキバンバンなる映画の脚本も書いてるし、007の脚本もやってたようです)、ファンタジーからリアリズムまで手広くやっています。(Iは児童文学というジャンル分けが嫌いなのでそう呼びませんけど)。
このBOYってのは自伝で、本当はこれの続きである 単独飛行 GOING SOLOを読みたかったけれど、これはBOYの続編である、とそれに書かれておったので、じゃあちゃんと最初から読もうと思って手にしました。
なんということはない、英国のパブリックスクールやら戦前の学校ってのは体罰ばかりでえらいとこでありました。っていう筋でしかないのですが、さすがに技量があって全然読めます。特にやっぱ子供の頃を書くのはものすごい力量ですなぁ。別にコドモの頃のことを書くからガキ向けってわけでもないのだけど、どういうわけかそういうくくりにされてしまいます。ただガキを主題にとったスタイルのほうが映える文体ってことでしょうね。ドストエフスキーにコドモを描かせることは出来ないわけで、ドストは異常者をまず主人公に置かないと話が始まらないわけです・・・ユーゴー、ディケンズはそのへんも上手いですけどね。ロシア文学ってのはそのへんが下手っぴなのかもしんないですね、もっと切実で真剣なテーマを持ってきたいから。コドモが罪だの罰だのいうはずないわけで・・・
そういうわけではこのコドモ、を主題にしたジャンルってのはまだまだ完成されてなくてやりようがあるってことでもありますね、ただのコドモをなめきったものは問題外ですけど。Iはトトロみたいな作品がいいとはちっとも思わないし。
なんなんでしょうかね、英語圏の作家ってのは、けっこうえぐい出来事をユーモアで書くのがやっぱ上手いですよね、なんなんだろうなそれは・・・、コトバ、の持ってる性質みたいなものかしら・・・
ダールの本来の持ち味は短篇だ、って批評紙がしつこくがなっているので今度短篇集も読もうとおもふ・・・
と!まったく年末に関係無いことを書いてたら年が明けとる!
今年もまぁまぁ頑張ろうと思います。
みなさまも、ごきげんよう。
まったく関係ない話ですが、芸術新潮でつげ義春特集やってましたね、おもわず立ち読み。まだ生きてたんだ。
芸術の到達点は意味を失うこと、リアリスムもまた、現実をありのまま描くだけで価値判断すらしない点では意味を与えないシュールレア、などと変わらない。そこに行きたい。
と言ってます、冴えてやがるぜ。そういうわけで作品を描くこと自体をやめるってのはランボー的美学なんであろうか・・・・
でも読みたいなぁ、新作・・・