2014年1月14日火曜日

1889 オスカー・ワイルド 全集の4 嘘の衰退 批評という芸術 WH氏の肖像 社会主義下の人間の魂 青土社  


「慈善というものはそれを、表看板にしている宗教化さえも認めるほどにおびただしい悪を生む。・・・良心その存在そのものが、Usの不完全な発達のしるしである。それが本能に併合されない限り・・克己とは人間が自己の進歩を阻む手段にすぎず、献身とは、古代からの人身供養、苦痛崇拝の一例である・・・自然、は美徳や貞潔などを一向だにしない。Usには美徳なんてものは何も知り得ない。
 犯罪者を殺すのはUsの虚栄心であり、彼らの犯罪によってOが何を得たか見せつけられないですむ、聖者が殉教するのも彼の平安のために良い、Iたちの報いの恐ろしさをみないですむから・・」
                芸術家としての批評家





 失敗したのは全集で読んでしまったことです。一個づつ時間をかけて読みたかった
・・

オスカー・ワイルドみたいな人間は、(現代にはなくなった人間のタイプというのがかなりたくさんいるものですが)ワイルドタイプの人間というのは特に、20世紀以降は存在しなくなりました。
 なんといったらいいのでしょうか・・知性だけを武器に生きている人間みたいな感じ、物質主義的で大衆主義的な20世紀とはまったく真逆の存在、一部のインテリたちだけに、それを上回る知性の冴えとユーモアと皮肉だけで生きている人間、インテリ向けだけの芸人みたいな存在。
 まずインテリというものがいません、つまり教養人です。今のインテリというとハーヴァードビジネススクール卒みたいな、ただのテクノクラートばっかしですが、孫正義とか、ジョブスとかも、彼らは教養のかけらもない。いわば金儲けの科学者、金儲けの技術やさんみたいなもので、別に審美眼があるわけでもなんでもない。そういう実生活には役に立たない美や、スタイル、を知っているインテリたち。こういうものはやっぱし貴族がいなくなると存在できないものです。まさしく大いなる幻影ですね。grand illusion 幻想は消えた。
 
 ワイルドってのは本音で語らない人です、本音ってものが無い。痴愚神礼讃のスタイルというか、まず世間の常識、の真逆からテーマを初めて、その通例の真逆がいかに真実に近いかというのを論証する。ワイルド自身にはどちらの意見もないのです、彼は絶対的価値なんてものは無い。というのを知っていますから、ただの論理パズル、として、その証明の道筋の美しさとか、粋さ、気の利いた感じ、とかを追求するのです、そういうわけでもやっぱり芸人と同じなんですね。
 たとえば、「何もしないことは最も文化的な行為だ」
「批評は芸術よりも創造的なものだ」
「事実が歴史を作るのではなく、事実が創作を模倣するのだ」
 みたいなテーマの取り方は、明らかに通念の逆で、ワイルドもそれを承知で、言葉を組み立てて納得させていく。
 松本人志のガキのハガキトークみたいなものです。むちゃくちゃなことをいって、理由をあとからつける。そのほうが、普通では思い浮かばない筋道、未開のルートをみつけられるものだから、結論自体ではない。ルートの鮮やかさなんです。

 そいでオスカー・ワイルドという派手な名前も示すようにEはものすごい、粋な男なんですねぇ。歌舞伎者です。


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 そしてこの本でというよりはワイルドの全著作の中で
社会主義下の人間の魂
は最高傑作なのですが、これは本当に大事な本です。命をかけるに値する本というのがあります、聖書、資本論、シェイクスピア、カラマーゾフ、神曲、ファウスト、みたいな。これもそういう本の一つです。
 ワイルドのことを世界で最初の現代人と呼ぶひとがいました、それってすごくいいとこをついていて、というのは、ワイルドこそ、ポストマルクスドストエフスキー時代、つまりドストを読み、マルクスを読んだ、第一世代だから。その2つを読んでそこからこれからどうすべきかを考えた最初の世代の代表者だからです。そしてIたち自身もまだずっとそこにいる、この自由民主資本主義体制、それがもう完全にダメだ、時代遅れのシステムだと気づいているのにどうにもできない世代。ワイルドたちが抱えている問題とIたちの抱えている問題は全く同じです。

 ワイルドは社会主義は、それが独裁者や権力を持つ社会主義であるなら、それは社会を公平にするために、すべての国民を奴隷にするような社会だ。と見抜きました、事実、ソ連、中国、日本、ドイツは、自分の国民をすべて奴隷にすることで存続しようとした。極右と極左はまったく同じものだから。それでは魂が殺されしまう、実現すべきは個人主義による社会主義なのだといいます。ワイルドは数々の警句が逆説で有名ですが

 個人主義に基づく社会主義

というテーゼは一番重要で一番美しいと思います。


 そして奉仕や慈善というのは、本来は同じ席について一緒に食事をするべきの尊厳ある人間を、食べ残しを与えるような、最悪の偽善行為だと看破しました。自由資本経済では、正しい事、他者のためになすことは、すべて最悪の犯罪行為だと見抜きました。なぜそんな食べ残しを与えるようなことをしないで、一緒の席につくこと、貧困が存在し得ない社会体制を作ることをしないのだ。私有財産を持ち、慈善が可能であるという状態こそつまり、貧困を生み出す社会を容認してるのと全く同じである。これは本当に恐ろしく正しいと思います。この社会ってのは、他人に無償で何かをすることを禁じられているのです。
 
 そして個人、が自由である社会主義を作らないのか?
 ということを個人主義、と芸術至上主義的なユートピア論を展開します。ユートピア論でないかぎり、それは現存の社会のままであり、不可能や本質的に無理と思われることを、しない限り、それは何も変わっていないのだ。新しいことは!今までできなかったことを実現することであるから。

 ワイルドは政治学者でも社会学者でも全然ないのですけど、一番正確で、一番大事な社会主義を打ち立てたと思います。Iがこんなに賛成できる政治論は他にはほんとに一切無い。100年以上たった今でも、これが最先端の政治論だと思う。



 そしてイエスは、社会を改良しようとする意思をまったく持たなかった。だからキリスト教もしかりで、社会を良くすることは絶対に無い。イエスやキリスト今日は社会、をよくすることを鼻からあきらめているのだ、というキリストに救済を求める事を否定します(つまりドスト批判です)


 とにもかくにもワイルドという人間は、これを書いただけで生まれた意味があったし、これを書くために生まれたきたような人間です。しかし実際はワイルドの説は歯牙にもかけられず、暴力が、ただ暴力が、資本を動かしていき、彼自身はプラトン的な理想を追い求めすぎて監獄送りです、そして失意と貧困の中で死んだ。


こんなにIがべた褒めすることなんてもう今年は無いですよw