2021年5月7日金曜日

300? マハーバーラタ 2002 原典訳マハーバーラタ 上村 勝彦 2011 Jaya: An Illustrated Retelling of the Mahabharata Devdutt Pattanaik   1992 バガヴァット・ギーター 上村 勝彦

自粛の二回目のGWというわけでバーラタを読んでみました。けれど読めば読むほどバーラタは奥が深いというのか、とにかく膨大、 巨大、それに付きます。


 日本語では完訳がないので以下の本参照

2002 原典訳マハーバーラタ 上村 勝彦 8巻までで作者死去

2011 Jaya: An Illustrated Retelling of the Mahabharata   Devdutt Pattanaik 

1992 バガヴァット・ギーター 上村 勝彦 


 世界三大叙事詩、と言われています。


他の2つはイリアスとオデュッセイアらしいですが、いや、イリアスとオデュッセイアは2つで一つみたいなものですし、分量的に言えば、マハーバーラタはその2つの10倍の分量があります。三大叙事詩、というにはかなりの無茶があります。


 そしてこのマハーバーラタというのも、一つの作品、っていうよりは、インド古代の文学アンソロジー、みたいな、いろんな話を集めた、千夜一夜物語みたいなものです。


 ホメロスの叙事詩よりも、このバーラタ、仏教の本家であるヒンドゥー教のバイブルの一つなので、日本文化(というかアジア全体の文化)の根にすごい深い関わりがあるのですが、全然馴染みがないし、その完全な翻訳もありません。(拙訳版しかないです、原典訳の試みもあったのですが、訳者がその半分も出来ないうちに死にました。といっても全部原典で読むのはしんどいです、前述のように、次々と加筆されていったアンソロジーなので、矛盾しまくってるし、順番もめちゃくちゃ、同じことを何回も言ってたりします)。


 こういうめちゃくちゃ重大な本なのだけれど、翻訳されてないってのは実はものすごいあって、中国の巨大な本、みたいなのはほぼすべて翻訳されてないのですよね「資治通鑑」とか。教科書にのってるけれど日本語では読めないっての。

 それはもちろん出版しても売れない、日本人が本、古典に興味が無いってことが原因なんですが、そういうところに急速に経済成長した、薄っぺらさ、上滑り感、ってのが出ますよね。

 英語圏のずるいというかお得なところは、イギリスが連綿と作ってきた文化もアメリカ人は利用できるってことです。英語に訳されてない本はほぼ無い。まず最初に英語に翻訳するでしょうからね。


 ヒンドゥー教ってのがいまいち日本に馴染みが薄い理由は他にもあって、それはやっぱ「可愛くない」ってのがかなり大きいと思いますね。インド的美的感覚と日本人好みのものってのが全然趣味が合わない。ヒンドゥーはとにかく派手、ギラギラ、ビカビカ、ごっちゃごちゃ、日本は禅、スッキリ、あっさり、モノトーンってのが好みですから、これは流行りませんな。

 その傾向ってのはこのバーラタにも現れてます、整理しようっていう気がない、ごちゃごちゃして、美辞麗句でギラギラに飾り立てている。


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 初めに宇宙の創生から語られるのですが


宇宙は闇から始まり、宇宙の歴史、ユガ、には終わりがあり、全てのものが死滅するが、また再生する、全ては大きな輪(チャクラ)を成す。


 というふうな説明があり、これはすごいと思いますね。奇跡的に、たぶんこれが正しい宇宙の解釈。宇宙には始まりと終わりがあるが、すべて循環する。2000年も前のヒトがどうやってそれを思いついたのか非常に謎です。

 宇宙に終りがある、って思いつくのってすごくないですか?一体なにから着想を得たのか?


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 身分制度とアイデンティティ


 身分制というと悪しき伝統の代表的なものとされてますが、なんでそれが作られたのか、ということをまず考えるべしです。


バラモン、は苦行者として 不殺生を戒律としてすべての存在の幸福を祈る

クシャトリアは王として、政治を行い、戦争をして、民を守る

ヴァイシャはつまるとこ兵隊です、司令官だけじゃ軍隊は成り立たない

シュードラは奴隷  こんなことを言うとまず批判されるのは間違い無いのですが、理想的には奴隷は無いほうがよいのですが、実際には奴隷がいることで社会は格段にうまく機能します。


特に正義(バラモン)、と実際の政治(クシャトリア)を分けてるのがポイントなのですわね。

 正義や理想だけでは、実際の政治は成り立たないし、正義や理想がないと、生きていく理由がない。それを身分という役割、を与えることで、それぞれが自分の役割を果たすことに専念出来るわけです。それによって、漫画の主人公が陥りがちな

「平和とかいいながら殺戮ばかりやっている、俺はもう戦いたくない」

というアイデンティティ崩壊を防ぐことが出来るというわけですね。


 挿話の中で父を侮辱されたバラモンが王を呪うのですが、その父はバラモンが修行を出来るのは、王が国を守護して守っていてくれるおかげであり、王を呪うべきではない、と諭す場面があります。

 宗教家たちが絶対に認めたくないことをあっさり認めるこの潔さ、マハーバーラタ、歴史に残るだけはあります。


 奴隷、というのはよろしくない、と誰もが思いますが、奴隷は社会の安定化に寄与します。奴隷制度がなくなると、失業者が生まれる、逆を言うと、奴隷がいれば失業者がいなくなる。

 失業者は常に社会の不安定要因でして、WW1もWW2もだいたいの内戦、宗教的対立なども、結局突き詰めると不況と失業者、それが原因で起こる財政破綻が原因になっている。失業者に社会保障を厚くすると、財政が崩壊し、さらにまた不況になり、革命、クーデタ、内戦・・・のスパイラルになるというわけです。

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 リアルとファンタジーのシームレス

 

古代の物語ってのは、現実とファンタジーがシームレスに入ってきます、普通の不倫話かと思いきや、竜の穴に落ちたり、急に神が出てきたり。誰もそれにつっこまない、突然神がしゃしゃり出てくるのは当然のこととして語られる。それによって、ファンタジー的なものが実際にいるのだよというリアリティを出す手法なわけです


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 よく歴史の授業とかで、BC500年にブッダが仏教を初めた。0年頃にイエスがキリスト教を初めた、と教えられますが、それだけ聞くと何も無いところから聖人が宗教を初めたみたいに聞こえますが事実は違います。

 BC500年頃に、ヒンドゥー教の一派としてブッダが仏教派、を初めた、ユダヤ教の改革者としてイエスがユダヤ教キリスト派、を初めた。

 です。ふたりとも改革者、であって、0からいきなり開祖になったわけじゃない。ただその一派がのちに支配的勢力を持った(時期があった)ということです。

 なんで彼らの派閥が人気になったかというとこれは非常に単純な理屈で、ふたりとも初心者に優しく間口を広げたのですね。

 ブッダは苦行、は必要ない。と言って、苦行はきちーなぁと思ってたヒトを取り込んだ。キリストは、ユダヤ教はユダヤ人だけが救われるけれど、キリスト派はユダヤ人じゃなくてもOKですよ、ってことにした。


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 伝聞叙述法  オリジナル崇拝のアンチテーゼ


この物語の作り方なんですけど、記録にしない、ことによって物語を広げていく方法なんです。伝聞叙述法と言えばいいのか。文字として残さないで、口頭だけで伝えていく、そうすると、語る人によって、物語を付け加えたり、記憶違いなどによって物語が変わったり、創作を加えたり、いろんな人の口と手によって、もとの物語とはかけ離れたもの、いろんなアイデア、嘘、真実、創作、がどんどん溶け合っていく、それを何百年も続けた後、良くなされた改変とか、すごい秀逸な嘘、真実が残り、一つの決定版物語として完成するということですね。

 実際、どうやっても思いつきそうにない、アイデアみたいなものがたくさんあります、どういう発想!?っていうもの。それはいろんな人間が自由に創作していくというこの記法でしか出来ないことです。


 現代はオリジナル崇拝っていうドグマがあって、オリジナルのものは作者のものであって、勝手に創作を改変したり付け加えたりしてはいけない。ってのが絶対のルールみたいに存在してますが、誰がそれを唱えてるのか?っていうと金儲けしたい連中が勝手に吹聴してるだけなんです。そういうやり方をしてる限り、こういう巨大な、作品ってのは生まれようがない。どれも小粒で、一人の人間の凝り固まった見方で閉ざされてるような作品ばっかり生まれてしまいます。


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 大まかな物語は、ベタ中のベタのそれであり、王族同士の王権をめぐる骨肉の争いです、がそれに神の子だの半神、仙人、などファンタジーなキャラが有象無象登場してその王族の紛争を盛り上げるという筋になっております。

 ベタと言いましたが、このバーラタが、「王族の相続争い」、という不滅のテーマのオリジナルである可能性は高いですね。

 要するにだいたい全員家族なのですが、兄弟の誰が、兄弟の誰の子が、王となるのか、またそれを阻止するためにどうするのか?ってことでして、王、というものが皇帝、国家、となって、現代においても、どの国家が次の覇権を握るのか?まったく同じことを3000年以上も続けております。


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 物語のコア、には、アルジュナとカルナという最強のふたり、実は兄弟の対決というのが一番の盛り上がり、物語の頂点になってると思うのですが、カルナ、っていうキャラは語り部によってかなりキャラが異なってますね。

 原典版はパーンダヴァたちに好意的で、ドゥルヨーダナとかカウラヴァは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって調子ですべて悪くいいます、日本のメディアが中国のことをすべて悪く言うように。原典版ではカルナはかなり脳筋のクソ野郎、ドゥルヨーダナの腰巾着みたいな扱い。

 けれども、要約版とかでは、カルナは約束、を守るために絶対に友を裏切らない

悲劇のヒーロー的なポジ、FATEもそっちのカルナ像ですね。

 カルナは「耳」という意味で、生まれてすぐに捨てられた私生児という設定もあって、アルジュナと対比されるポジにされたのですね、脳筋だとビーマと対比されることになるから。

 アルジュナもアルジュナで全然良いやつではなくて、良くいる真面目でプライドが高く、格式とか生まれを重視する、貴族主義的な嫌な奴です。どんなヒトにも結構冷たいし自己中です。アルジュナよりもビーマのほうが庶民に信仰されるのは頷けます。

 というわけで、クリシュナという完全無欠の存在が後から明らかに無理やり追加されたのですが、こいつは本当に機械仕掛けの神で、キャラクターとしては魅力がない。

 カルナは最終的には、たとえドゥルヨーダナが間違っていようと、絶対に裏切らないと約束したから、セカイのすべてを敵にして、悪と言われようと、約束を守るという選択をします。これは本当に人によって評価が分かれるところでしょうね。

 この問題を難しくしてるのは、一応悪とされるヨーダナが悪ではないってとこなんですね、ただ愚劣で小心者でワガママなのです。むちゃくちゃな圧政を敷く暴君というわけじゃない。割と政治はちゃんとやってるっぽい。つまりはただの凡人、普通のヒトなのです、凡人故に天才を恐れる、それが王と生まれてしまったということ。

 これはカルナも見捨てるわけにはいかない、バーラタの中でみんな矛盾しまくった行動をして、場面ごとにキャラが変わりますけど、ヨーダナのカルナに対する友情だけは確かに一貫しております。



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 宗教観の変遷


バーラタを読んでると、最初のオリジナルの部分と明らかに追加されたところってのがだんだんわかるようになってきます。

 オリジナルは結構、普通、の王家の争いだったのが、だんだん神とか悪魔とかが登場しだし、さらに時代が下るとヒンドゥー教的なもの、哲学的あるいは、少年漫画っぽい発想のものが出てきます。つまり


セカイのすべてを創造した神 ブラフマー

セカイのすべてが創造される前から存在する最高の存在

すべてを破壊する武器 パーシュパタ

すべてを破壊する武器を無効にすることが出来る神 ヴィシュヌ

絶対に誰にも殺されないという能力 ビーシュマ

絶対に誰にも殺されないビーシュマを殺すことが出来る男でも女でもない人物  シカンディン


っていう調子、最強の最強!最強の最強を超える最強!!っていう子供の喧嘩形式です。バカバカしいけどそれが探究心ってことでもある、それ以上に分割出来ない原子、だけどさらにその原子の中にある素粒子、その素粒子を支配しているダークマター??

 真理、至高、究極、魂・・・っていうふうな、唯一神的考え、がだんだんと出てくるのは、アレクサンダー大王のインド遠征がやはり関係しているようです、アレクサンダー大王の遠征よりも以前に、ギリシャとインドってのがつながっているはずで、わりかし即物的だったヴェーダ教が哲学、形而上学的なものへと変化していくのですね。



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 共感こそ英知である

 バーラタはインドの歴史のみならず、人類の歴史でも初めて、人間同士の共感や信頼こそ大事だと説いた本だと言えるようです。

 他の神話や聖書みたいなものは、結局のところ、神へとにかく信仰せよ!ということを言っていて、ようするには、宣伝文句なんですね。神へ信仰しないといけないよ、つまり、祭司であるワタシにカネを出せよ。ってことです。

 別に聖書のみならず、なんだか色々言ってるけれど、最終的にはカネを寄越せと言ってるだけ、言葉ってそういうものです。言葉とは自己正当化だけのもの。

 けれどバーラタはそれに反対しているのです、ヴィヤーサはバーラタで金儲けしようとしてないんです!きゃあ!

 ヴィヤーサなる人物が本当にいたのかは知りませんが、バーラタのオリジナル部分を書いた人間はやはりいるはずで、ただ人間の為に無私の奉仕をしたのなら、たしかにそいつは聖仙ですね。


 戦争であっても血縁者に対して戦うことは出来ないというアルジュナに対して、クリシュナが励ました言葉がバガヴァット・ギーターです。



戦うことから逃げるヒトを励ますという世にも珍しい聖典です。

といって侵略行為を称賛してるわけではなくて、正義、ダルマの為に戦うことから逃げてはいけないということです。

義を見てせざるは勇なきなりってことですね。


クリシュナはヴィシュヌの生まれ変わりであるため、ギーターは、シヴァではなくヴィシュヌ崇拝です。

シヴァは愚かな人間など見向きもしない、苦行者と言えますが、ヴィシュヌは愚かな人間を助けようとする

つまり何もしないのではなく積極的に行動する者(ヨーギン)、を苦行者よりも良いものとします。

だからアルジュナにダルマの為に戦えと勧めるわけです。


仏教はどう教えてるのでしょうか?愚かな人間どもの争いなど無視せよ、と言ってるのでしょうかね?



またこの聖典は神様が直接しゃべってるということでも非常に珍しいです、だいたいは神は自分の代弁者に語らせるもので

直接教えてくれるなんて確かにヴィシュヌはヨーガの実践者ですね。



実際の文章は観念的で、哲学の弊害ともいうべき、勝手に作った述語に満ちあふれております。

自分で新しい言葉を作って、結果何を言っているのかファジーにさせるってことは哲学者がよくやることです。

けど4世紀頃の哲学者にもっとハッキリ論理を明確にしろってのはお門違いってもの。



 こうしたいわゆる「悟り」的な教義を嫌うヒトもいるでしょう。結局諦めろってことではないか。

そうじゃなくて、諦めずに必死に努力して、運命に抗って、成功を手にすることが生きる意義なのだっていうヒト。

少年漫画のドグマと呼べばよいのか。あるいは進歩のドグマです。


 確かにそれはそれでいいのかもしれませんが、仮にすべてのヒトが、絶対に諦めない!絶対に折れない!一歩も譲らない!絶対に生き続ける!

無限に生き続ける!というふうになった場合に、間違いなく社会が崩壊します。

 みんなが諦めずに必死に努力すれば競争が激烈になり、エスカレートし、インフレし、勝つために手段を選ばくなり、破滅へと至る。

進歩のドグマは破滅的教義です。


 悟りというドグマは、仮にすべての人間が悟りを開いても、社会は存続可能、だから平穏のドグマと言えます。


オレは人類を破滅させたいのだ!人間なんて大嫌いだ!っていうヒトもいますからどちらが正しいとは言えませんが。


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バガヴァット・ギーター 


 戦争であっても血縁者に対して戦うことは出来ないというアルジュナに対して、クリシュナが励ました言葉がバガヴァット・ギーターです。



戦うことから逃げるヒトを励ますという世にも珍しい聖典です。

といって侵略行為を称賛してるわけではなくて、正義、ダルマの為に戦うことから逃げてはいけないということです。

義を見てせざるは勇なきなりってことですね。


クリシュナはヴィシュヌの生まれ変わりであるため、ギーターは、シヴァではなくヴィシュヌ崇拝です。

シヴァは愚かな人間など見向きもしない、苦行者と言えますが、ヴィシュヌは愚かな人間を助けようとする、菩薩的な存在。

つまり何もしないのではなく積極的に行動する者(ヨーギン)、を苦行者よりも良いものとします。

だからアルジュナにダルマの為に戦えと勧めるわけです。


仏教はどう教えてるのでしょうか?愚かな人間どもの争いなど無視せよ、と言ってるのでしょうかね?


またこの聖典は神様が直接しゃべってるということでも非常に珍しいです、だいたいは神は自分の代弁者に語らせるもので

直接教えてくれるなんて確かにヴィシュヌはヨーガの実践者ですね。


実際の文章は観念的で、哲学の弊害ともいうべき、勝手に作った述語に満ちあふれております。

自分で新しい言葉を作って、結果何を言っているのかファジーにさせるってことは哲学者がよくやることです。

けど4世紀頃の哲学者にもっとハッキリ論理を明確にしろってのはお門違いってもの。



 こうしたいわゆる「悟り」的な教義を嫌うヒトもいるでしょう。結局諦めろってことではないか。

そうじゃなくて、諦めずに必死に努力して、運命に抗って、成功を手にすることが生きる意義なのだっていうヒト。

少年漫画のドグマと呼べばよいのか。あるいは進歩のドグマです。


 確かにそれはそれでいいのかもしれませんが、仮にすべてのヒトが、絶対に諦めない!絶対に折れない!一歩も譲らない!絶対に生き続ける!

無限に生き続ける!というふうになった場合に、間違いなく社会が崩壊します。

 みんなが諦めずに必死に努力すれば競争が激烈になり、エスカレートし、インフレし、勝つために手段を選ばくなり、破滅へと至る。

進歩のドグマは破滅的教義です。


 悟りというドグマは、仮にすべての人間が悟りを開いても、社会は存続可能、だから平穏のドグマと言えます。


オレは人類を破滅させたいのだ!人間なんて大嫌いだ!っていうヒトもいるでしょうからどちらが正しいとは言えませんが。


戦争と平和は喜びと悲しみ、季節のめぐりのように、必ず交互に現れるもので

それを認めようとせず認識しようとしなければ、真実から目をそむけて悟りの道から遠ざかることになる

それはすべてのものがいずれ死ぬ、というような真実から逃げているのと同じことだ

 怒ることなく戦い、憎むことなく殺さねばならない




義務は行為にあり、その結果を動機としてはならない

そして結果に執着してはいけない



ヨーガとは平等の極致である



すべての欲望と執着をしてて、魂に平穏を得ることを目指せ


アルジュナ「ではなぜ行動するのか?」


A 行為は無為よりも優れている、そして愚者を導くために正しい行動を賢者はしなければならない


行動する者(ヨーギン)は苦行者、聖職者、知識人よりも優れた存在である アルジュナよヨーギンを目指せ


神を信愛するものは、たとえ最低の極悪人でも善人となれる


我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨てて、寂静に至ったヒトはブラフマンと一体化し、アートマンが平穏となる

そうなったヒトは悲しむこともなく、期待することもなく万物に対して平等となり、最高のバクティ(信義)を得る。