黒澤はどっからダメになっちまったのか?っていうのを考えると、やっぱ1958年の隠し砦からなんでしょうね、エンターテイメント黒澤になってしまった。
会社を干されて。
それでも赤ひげはちょっとは良かった記憶があったので見返してみたけどやっぱり駄作ですね。ヒューマニズムなのかなんなのか、なんか、ぬるいっていうか、気持ち悪いっていうか・・・
こうやって好きなヒトが堕落していくのって、耐えられないですよね。キライな奴がキライなままでいるのは別にどうでもいいしダメージも無い。
けど自分が好きな人がボロボロになっていくのは耐えられない。EVAのTV版ではアスカがそういう役目で、かなり良く出来てたけど、大不評だったらしくてw そういう演出は封印されましたね。
シモーヌ・ヴェイユという思想家、が実は今密かなブームというか、小さな盛り上がりを見せてる人物だと思います。ここ最近出版も続いてるし。
インテリの間では、現代の状況が、シモーヌ的だっていう気がする、ポストモダンだとか構造、構築主義なんていう、カフェでの暇つぶしみたいな思想が廃れて、正義、や政治が切実なものになる、つまり、行動。 革命かファシズムか、二択だけど選択肢が無い。ひたすら無力。
ヴェイユはなんと、最終的にはキリスト教化するという、最悪中の最悪の逆行、をして、カミサマを待っている。みたいなコトをいうところまで行ってしまいました。それはあんなにカワイクて、あんなに生命力にあふれていた、若き女性革命家が、最後には神に祈って、神父様にひれ伏してるっていうこの構図は。まさに観るに耐えない。あのガリガリのアスカよりも、もっと理論的で、現実的で、グサッとくる、吐き気を催すシーンです。
そういう逆行、というか、裏切りというか・・廃人化のプロセスってものを、Iたちは何度も見ていて、やっぱりドストエフスキーの正教化、最終的にはアリョーシャをキリストに仕立てあげてしまったみたいな、カラマーゾフでの裏切りは・・・やっぱ見るに耐えないものですね。
黒澤の逆行は、やっぱり蜘蛛の巣、そして隠し砦からなんだと思いますよ、それって、えっ?それがイヤだって言ってたんじゃないの?それがイヤだって、やっと戦争が終わって、自由な映画作りが出来る、客や国家に媚びるだけの、映画じゃなくて、本当に良い映画を作りたい、っていう、あの・・・よしこれから廃墟の東京から頑張ろう、っていう、ものを裏切って、金儲け主義のエンタメ映画を作り始めましたからね。もちろん世間はバカですから、バカっていうかカネが好きですから、隠し砦はすごい、三十郎、用心棒・・は・・・・、みたいなこと言います。
けどクズですねあんな映画、繰り返しじゃん、またもう何一つ学ばなかったなこいつらって感じ。まったくの廃人です。死ねばよかったのに。あんな駄作ばっかり作るくらいなら。晩節を汚す・・・日本人は平和ボケ、だとか言うのなら、日本人は1958年にはもう戦争のことなんて何一つ忘れましたよ。ニンゲンが戦争から堕落するのには15年しかかからないってことです。
ひどいコトバを並べ立てるのは、本当にショックだからです、見るのもヤダ。
そういうわけではどん底、は、逆行の黒澤と、誠実な黒澤の中間点みたいな映画で。ぞわぞわするとこがあります、おそろしくカネがかかってないし。まったく絶望しきっている、希望が無いということになれすぎてる、ヒトラーが政権を握ったあとのヴェイユみたいに、口先ではまだ気焔をはいていても、内側は完全に死んでるんです。本人自身が自分の言ってることを信じられない。
実はそういうまったく絶望しきったニンゲンが、自分のようにまったく虚無的な美辞麗句のキレイ事を言うんです、不思議だけどそうなんですね。考えるのをやめて、夢を見てる、カミサマを待ち望んでるんです。まったくの虚無・・・・
ヒューマニズムという、人類に対する信仰は、最悪の逆行です、ルネサンスまで戻る気か?もう考えることをやめて?